もてるためには、臥薪嘗胆
1965年四月以降、東京五輪のほとぼりも冷めて、
この時代は、戦後生まれの団塊の世代と言われる人々が、大学生になり始めた頃です。小学校も中学校も、1クラス60人、学年10クラス等という環境で育っています。
その上、子供時代にはろくに物の無い時代を経験していますから、すばしこいのや、悪賢いのが多くなるのは当然でした。
あらゆる分野で、マニュアル通りは通用せず、アドリブの達人だけが、勝ち残りました。既に人工衛星は地球を回り、数年後には、人類は月にも到達するのですが、庶民の日常はアナログ全盛でした。
コンピューターの確立で、勝負が決まったり、一人で麻雀をしたり、レンズを向ければ、自動的にピントが合ったり、そんなことはまだ無かったのです。遊びと言われる、あらゆる事にさえ、個々の力量が問われました。そして人々は、自身のそんな能力器量を向上させる努力を、夢中になって行ったのでした。
その方が遊びが楽しくなると考えていたのも事実ですが、格好良くなって、女性にもてたい、と言う気持ちが殆どだったのです。男共の考えることなど、昔も今も変わらないのです。
パチンコで勝つためにも、きれいにピントを合わせるためにも、洒落たラブレターを書くためにも、それなりに訓練、努力が必要だったのです。そうしなければ絶対に目的、想いは遂げられなかったのです。学業(専門)の方はそこそこの点をもらえばよく、文系の学生などは、ろくに学校へも行かず、進級卒業でき(その点は今も一緒かも)、もっぱら教養である遊びや趣味に専念したのでした。
三流のプロより一流の素人、
教養と言うと聞こえは良いのですが、マージャンやパチンコ、酒、海にスキー、映画に歌(バンド活動等)に、要するに学業以外の遊び事全てに血道を挙げて頑張っていました。洋物一辺倒だった学生達の音楽の中にも、この頃になると、日本人スターが出現してきます。先の加山雄三さんは既に学生達の間で人気スターでしたが、関西から新しいスターが生まれました。フォーククルーセイダーズです。デビュー曲の、帰ってきた酔っぱらいは、学生の間ではあまり人気が有りませんでしたが、それ以降の、イムジン河、や、悲しくてやりきれない、青年は荒野を目指す、ETCは大人気でした。
あまり上手だとは誰も思わなかったのですが、アメリカンフォークの格調高さとメジャーコードの美しさ、を格調高い日本語で歌ったのです。何より重要なのは、彼等が全員、現役の大学生だった点なのです。加山雄三さんは先輩として、慕われていましたが、この人達は同級生の感覚でした。レコードも随分売れました。
四畳半フォークの芽生え、
東京でも関西でも学生フォークシンガー達が活躍していました。
若者達のブロードサイド4、や、バラが咲いた、のマイク真木さん、小さな日記、の、フォーセインツ、白いブランコのビリーバンバン、ETCです。彼等も同じ大学生でしたが、こちらの方は、一般の人気は高かったのですが、歌詞が幼稚、メロディーも歌謡曲のよう、と言う理由で学生達にはあまり人気がありませんでした。
東京のフォーク界で、唯一筋金入りのシンガーと言えば、何と言っても、森山良子さんでした。他のシンガー達は、いつ演歌に化けても可笑しくない様な、危なっかしいムードを持っていたのですがこの、森山良子さんは別格でした。
この都会生まれの、フォークと呼ばれた、歌謡曲風の歌の数々が、この数年後、1970年代になると、日本のフォークに進化してきます。この時点でフォークソングではなく、フォークになってしまいました。かぐや姫の神田川、と言えばお解りでしょう。
フォークソングフアンはこれを四畳半フォークと呼んで、あまり好みませんでした。
今との大きな違いはこのシンガー達全員が、現役の大学生だった事です。逆に言えばフォークソング界のスターになるためには、大学生でなければならなかったのです。更に言えば、大学生で有るが為に、たいして上手でもない奴がスターになれてしまったとも言えるのです。まだまだ大学に権威が有った証でしょう。
彼等は学生の間テレビに、コンサートに、引っ張りだこで、スターでいることを、ちょっと格好良いバイトをしているような感覚で楽しんだのです。卒業後、大半はサラリーマンやエンジニア、医者、自営業、etcと言った一般社会人として、巣立って行ったのでした。
グループサウンズも大流行していたようですが、女子学生はともかく、男子学生でこのレコードを自発的に買ったと言うのは聞いたことがありません。ただし当時盛んだった、テレビの歌番組では、森進一さん、石田あゆみさん等と共にグループサウンズは引っ張りだこでした。
加山雄三さんだけが、大学生も含めて、国民的、全国区の大スターでしたから、テレビにラジオに映画に雑誌に、ともかくあらゆるメディアに大活躍だったのです。
それも歌手と俳優の両方で。
余談ですが、加山雄三さんの若大将シリーズは夢物語ではないのです。さすがにモーターボート、は無理でしたが、ヨットは貸しヨットに、これで若大将シリーズと同じになります。当時の東京や、大阪の大学生達の現実でした。無論私も。。。
青春は海、青春は山、
夏休み中海で、春休み中スキー場で、ゴロゴロ過ごす大学生は大勢いました。本当に大勢いました。。。。出会いもたくさんありました。。。。千葉や伊豆の海辺の家を一夏借りてしまうのです。お婆さんだけの家などは夏になると、息子の家などに行ってしまい空き家になるのです。こんな家を仲間と一夏借りてしまい、夏休み中過ごすのです。
1965年、千葉の館山で、2LDKの一軒家が36000円でした。仲間6人で借りましたから、一人6000円です。7月10日過ぎ、夏休みにはいると直ぐに、布団や食器や生活用品を誰かの家の車で運ぶのです。一応勉強道具も。海で本を開くことは殆どありませんでした。毎日海を眺めて、ボーっとしているのです。男の子達の必須アイテムはギターです。浜辺でギター抱えてフォークソング三昧。周りのパラソルも皆同じ、、たまにはウクレレも。。
2,3日して点在していたパラソルが2本ずつ束ねるように、セットになって浜辺を飾ることになります。男声ヴォーカルが混声になるのです。若者達は青い空と白い砂浜だけでなく、ピンクの空気も手に入れるのです。たまにこのパラソルが入れ替わることは有りますが、大抵は、夏の終わりまでこのままです。
GFを獲得した男共は、俄然意気軒昂で、恰好付けてヨットに乗ろう、等と言い出します。さすがにヨットは借りると安くはありません。2時間で2千円程します。男共から100円玉を集めますが2000円になりません。女の子が残りを出すのです。
誰一人ヨットなど操縦したことは有りませんので、ボート屋の親爺に軽く教わります。
風を受けるように帆を張ればよいのは解っていますが、向かい風でも、40度位までは進む事を教わります。つまり向かい風の時はジグザグに進のです。これだけ聞いて海に出てしまいます。誰も止まり方は聞きませんでした。5人乗りに9人乗っています。舷側すれすれに海面が来てます。言われた通りに帆を張ると、面白いように走ります。向かい風はジグザグに進むと本当に前に進みます。女の子達もきゃーきゃー喜んでます。遠くに桟橋に繋がれた、豪華キャビンが見えます。あまり沖に出てしまうと帰って来れなくなりそうで心配になりました。
帆綱持つ手を仲間と変わります。本当は帆綱と舵は一人で操作しなければ行けないのですが、そんなこと出来ませんから、舵は女の子が持っています。帰ろうとして転回しますが上手く回れません。正面に先ほどの桟橋の先に繋がれたクルーザーがゴマ粒のように見えます。海は青く深く、空も青く高く、可愛いビキニの女の子が3人、男6人、青春その物です。
舳先に乗っていた女の子が悲鳴を上げました。ゴマ粒だと思っていたクルーザーが視野一杯に広がっています。たかが貸しヨットと思っていましたが物凄いスピードでした。舵を持った女の子が必死に切っていますが舵を切った方向には進みません。帆綱を持った奴が、死に物狂いで引っ張っています。船はいっこうにスピードも落とさず、方向も変えず、そのままクルーザーの土手っ腹に、ドカン、貸しヨットの舳先がクルーザーにずぶり、と刺さってしまい、抜けなくなってしまいました。抜こうとしてヨットを揺さぶりますから穴ボコはますますでかくなりました。そのうち浜から、クルーザーの所有者と、その仲間達が、駆けつけてきました。万事休す。。。。
小田急沿線のお金持ちの多い某有名大学の3年の人でした。最初は凄い剣幕で、仲間も一緒になって、張っ倒されそうになっていましたが、我々が全員、ヨット初体験と言うことが解ると、いくらか穏やかになり、話し合いは浜辺に有る、立教大学のキャンプストアで行われました。無論ボート屋の親爺も交えて、この浜辺のボート屋、や海の家、釣り宿の親爺、ビーチボーイのイカレポンチ、等々、全部彼の仲間でした。
結局船大工に見せねば損害は解らない、もしかしたら下田の造船所まで陸送しなければ治らないかも、と言われました。此処は千葉の館山です、凄い距離なのは解るでしょう。安く済めば15万くらい、下田へ持っていくと陸送のトレーラー代も掛かりますから、多分30万くらい、いずれにしても今すぐは解らないので、夏休み明けに連絡します、と言うことで落ち着きました。安ければ一人2万弱、高かったら何を質屋に入れようか、とか、何のバイトしようか、等と、、女の子にも幾らか出してもらわないと、幾らにしようか、等々、その日の夕飯は砂を噛む様で、静まり返っていました。
翌日、クルーザーの持ち主に浜辺で合うと、にこやかに穏やかに”今は楽しく過ごして下さい”とのこと。海を愛する人に悪人は居ない、多分踏んだくられる事もないだろう、一安心になりました。アッケラカンのこの時代、昨日のことなど忘れたように、浜辺でギター片手にフォークざんまいが始まったのでした。さすがにヨットに乗ると言う奴はいませんでした。あれからヨットには乗っていません。ちなみに進み方だけ習って海に出ましたが、止まる時は帆綱を離せば良かったそうです。必死に引いていたあの手を離せば、止まったのです。止まり方も聞いておけば、、、。
九月に入って連絡が来ました、14万5千円だそうです。渋谷の喫茶店で会い、修理代を渡しました。一人二万五千円程になりました。私はカメラとラジオ、質屋です。それでも足りませんから、頭を下げてお袋に頼みました。質屋は内緒です。絶句してました。
”女の子にも少し出してもらおうか”なんて事も言い出しましたが、いざ皆で会うとチャーミングな笑顔には勝てません、結局うやむやになりました。男はバカだよ、、、。
皆それぞれ質屋で、足りない分は親に土下座です。サラ金は未だこの時代は有りませんから。話がそれました。
海に出会いは数々ありますが、別れは有りません、別れは現実に戻る東京で、、、
ちなみにパラソル一本につき一軒、家を借りてるはずなのですが、どちらかの家が空き屋状態になるのです。もったいない、最初から一軒にしておけばいいのに、、、、、
ですが男女の交際も若大将シリーズと一緒ですから、端で見ていてハラハラするほどには、実は大抵は何事もないのです。時々正装して、浜辺のホテルのレストランに出かけたり、大学主催の海の家(海水浴場には当時必ず、各大学の広告研究会や、服飾研究会などが海の家を出していました、これをキャンプストアと言いました)にダンスに出かけたり、この当時の大学生は、あの映画と同じ、皆紳士、淑女の集団だったのです。いつも横に寄り添いながら、、、、
東京や大阪と言った都会で、昭和10年代後半から、20年代前半に生まれ、大学へ行った人達に取っては、人ごとではありません。若大将シリーズは若き日の自分の姿と重なるのです。
春休みも同じです、ただしこちらは民宿ですから、単独行動になります。期末試験が終わった2月下旬頃から3月いっぱい、場合によっては4月頭まで、スキー場でゴロゴロしているのです。日本中のどら息子、一部どら娘が集まっています。土日祭日などは忙しくなるので、民宿の配膳や、ロッジの手伝い等をします。また子供や初心者の団体グループなどが来ると、歩き方や簡単な滑り方等を教えます。指導員はそんなに沢山はいないので、補助と言ったところです。こういった手伝いの日は宿泊代が只になります。
空いている時は、リフトの優待券を借りっぱなしにして、滑りまくります。リフト代金はかかりません。土日祭日とその前日、以外は殆ど空いているのです。
悪天候の時は、一応支度して、ゲレンデの行きつけ食堂に行きますが、寒いから滑りません。こんな時はギター片手にみんなで歌を歌うのです。英語の歌はアメリカンフォーク、日本語の歌は加山さんやフォークル、森山良子さんの歌です。時々ダークダックスも。女の子も大勢いますから、男共もギターテクニックや、歌声に磨きが掛かることになります。無論ダンスも。都会の大学生達の一大社交場になるのです。ですから出会いも沢山あります。
夜は夜で誰かの宿に集合です。大概男の子の宿になります、理由はギターが有るからです。ゲレンデで知り合った男女が集合します。菓子や酒、コーラなどを持ち寄り、炬燵パーティです。10人以上はいたはずです。出身は関東、関西半々、名古屋や九州もいました。親しい友人も、イヤな奴も、この時出来ます。彼女も、、、この人数になるとギターも三台位は揃いますから、バンド状態になります。東西フォーク合戦が始まります。
この時代、民宿の客は大体全て学生か、高校生か、OBのどれかですから、歌がうるさい等と野暮なことを言う奴はいません。その変わり仲間に入れちゃいます。関西関東名古屋九州四国、etc、出身や、学校は違いますが、同じ大学生、又はその予備軍、たちまちうち解け、友人になってしまうのです。深夜までこうして歌ざんまいで過ごすのでした。当然翌日のゲレンデ行きは昼間際と言うことになります。長居をしている割りにスキーが上達していないのが、理解できると思います。
女の子が居ないときはフォークがマージャンになります。東西対抗麻雀大会、てなわけです。
長居をしていると民宿のメシに飽きてきます。何と言っても洋食が食いたくなるのです。天気の悪い日、又は混雑する日曜日などに、昼間ゲレンデには行かず、長野市内のレストランに行くのです。長野まで出ないと、洋食は無かったのです。無論ゲレンデで知り合った仲間、女の子も当然一緒ですが、グループになって出かけます。お目当てはグラタン、カニコロッケ、ポークソティ等々、あとフランスパン(バケット)と、サラダも。
本当はピザが食いたかったのですが、これだけは東京にしか有りませんでした。ピザもそれ以外の洋食も、今ならスキー場にも普通にありますが、60年代は本当に無かったのです。
ランチタイムに間に合うように10時半頃から出かけるのです、少し早めに着きますから、ランチまで市内のデパートなどでウインドーショッピング、買い物はしません。男だけなら帰りはパチンコ、大概女の子も一緒ですから善光寺参りや、繁華街をぶらぶらして夕方帰ってきます。この日はウエアは着ずにゲレンデにたむろす事になります。
中には追試を受けに一日だけ帰る奴もいます。長い春休み、のんびりとスキーざんまいで過ごすのです。
こんな状態で春休み殆ど全部を過ごしますから、朝早いゲレンデには行った事がありません。上達しないのは当たり前ですか、スキーが、、、
スキー場は出会いの場、別れは有りません、別れは東京で、現実に戻るのです。この奥信濃のスキー場、関西方面の人も多く、むしろ東京より多いかも知れません。日本全国に友人が出来ました。還暦間近になっても、手紙が来たり、二泊三日のスキーで出くわしたり、若き良き日の勢いは、未だ僅かに残っているようです。人生の最後の日まで、燃えかすでも残っていて欲しいものです。
こんな生活を海は3年間、スキーは4年間、卒業間際まで続けるのです。正にキリギリス状態です。最後の四年の夏はさすがに、ほんのささやかですが就職活動もありますので。。。ちなみに1965年には36000円だった海辺の家も、三年後の1967年の夏は80000円になっていました。6000円で済んだ割り勘も12000円程になり、同じく1965年春には400円だった戸狩のスキー民宿も1969年の春には800円になったのでした。一泊二食付きで。
このように1964年の東京オリンピック直後から1969年の人類が初めて月に行った直後、それは1970年3月の大阪万博が開幕した頃までの間になりますが、正に大学生の遊びがそのまま文化として、発信されたのです。音楽ではビートルズ、アメリカンフォーク、和製フォーク、湘南サウンズ、グループサウンズ、一連のミュージカル映画のテーマソング、それに歌謡曲、演歌、つまりジャズとクラシック以外の音楽が共存共栄の状態だったのです。それほど好景気が続いていた証なのでしょう。ちなみに、テレビのゴールデンタイムは全て歌番組でした。
1969年夏、人類は初めて月面に立ちました。これより半年ほど前、そのままでもオールデイズと言われずに、21世紀にもとけ込める様な歌、サウンドが出現しました。映画、卒業のテーマを引っさげて、サイモン&ガーファンクルの登場です。
これまでプレスリーであれ、ビートルズであれ、アメリカンフォークであれ、大多数のフアンと共に、かなりの数の批判者がいたのも、紛れもない事実でした。しかしこのデュオを批判する勢力は全くありませんでした。
どちらかと言えば、対立していた、ロックフアンと、フォークフアンの両方の支持を得てしまいました。アナーキーでアウトローが信条のローリングストーンズのフアンまでが、ボクサーやミセスロビンソンのレコードを買ったのです。
レコード屋もそれまで無かったジャンルを作って、売っていました。フォークロックのジャンルです。このフォークロック、これより6-7年程前、トリニロペスやジョニーティロットソン等が、アメリカンフォークやゴスペルを、ロック&ロールのリズムで歌い、中ヒットを飛ばしていました。しかしビートルズの出現で、ジャンルそのものが、無くなってしまった様な状態に、なっていたのです。彼等も又ビートルズ台風の被害者でした。
サイモン&ガーファンクルはアメリカンフォークを歌った訳では有りません。彼等の歌はアメリカンではなく、南米のフォルクローレが土台になっているのですが、ムード的には芸術的フォークソング、タキシードが相応しい、軽やかで美しいロック、と言った感じが有ったのです。彼等はタキシードは着てはいませんでしたが、まあ音楽好きならば、あの美しく非の打ち所のない、フーガと言うか、合唱とギターテクニック、メロディーやリズム、上品さと、気さくさの溢れたムード、けちなど付けようもないのは当然だとは思います。
そんな理由で、程度の差こそあれ、一度でも彼等の歌を聞いた人達は、皆、フアンになってしまったのです。余談になりますが、日本のデュオチャゲ&飛鳥はこの、サイモン&ガーファンクルの影響を、色濃く受けている、と思っています。30年以上も経て、21世紀を迎えた今、このサイモン&ガーファンクルの歌が、中学校や高校の教科書に載っているのは、ごく自然の成り行きの様に思われます。
もしこのデュオが2000年前のナザレの丘や、500年前の、ティノティティトランに現れていたら、多少歴史も変わったかも、などと考えることさえ有ります。
この頃既に、ビートルズはスタジオワークだけで、ライブやツアー、メディア出演をやめており、ファンの前に姿を見せることは、最早ありませんでした。それでも凄い人気は相変わらずでした。この頃になっても、ヒットチャートの上位4-5曲は、まだビートルズが独占していました。デビュー後6年も経ているのに。
シナトラもプレスリーも、デビュー当時はともかく、6年も経てこんなのは前代未聞でした。そんな怪物ビートルズに果敢に挑んだのが、このサイモン&ガーファンクルだったのです。何しろ、ヘイジュード、や、オブラディオブラダ、が大ヒットしている中へ、卒業、を引っさげて飛び込んでいったのですから。
1967年頃、宝塚とグループサウンズ
ファッションの分野では、グループサウンズの影響で、ミリタリールックと言う軍服風ファッションが登場します。言い方を変えましょう。
ベトナム戦の影響で世界的に、ミリタリーファッションが流行していたのです。思想的な背景が有ったのです。しかし日本では未だ流行ってはいませんでした。当時の日本にはまだまだ、軍隊、原爆、アレルギーが強かったのです。あまりに軍隊、戦闘服のイメージが強すぎました。このスタイルを当時大流行していた、グループサウンズの面々が取り入れたのです。
元々、初期ビートルズ、リバプールサウンズの影響で、出現したグループサウンズですから、スリムな襟無しジャケット、サイドゴアブーツ、マッシュルーム形ヘアスタイル、等を思い出せば、納得できると思います。いわゆる元祖モッズファッションです。ここへ宝塚が混じってしまいました。
理由はフアンに有りました。宝塚のフアンは殆ど全て、女子中高生、あるいは女子短大生、でした。小学生も大勢いました、。当時の宝塚は今より更に、女の子には絶大な人気だったのです。特に地方では凄まじい物でした。彼女達のお目当てのスター達は男役だったのです。
彼女(彼)等の舞台衣装は、大概、良くフィットしたイタリアンカラーやチャイニーズカラーのパンタロン(パンツ)スーツ。男子フィギアスケートの衣装の様な感じだったのです。これにマントを羽織ったり、羽根飾りを付けたりして、極めて華やかに装っていたのです。
肩章を付けたり、勲章を飾ったり、した軍人の大礼服の様になります。何となく当時流行のミリタリーファッションの様になってきました。
しかし世界的なミリタリールックとは、文字通り、軍服、ユニフォーム、ベトナム戦の影響ですから、男臭く、汗くさい物だったのです。しかし高度成長最中の日本のミリタリールックは、世界とは異質な物になってしまいました。
レコード会社の売り込み策に利用されたのです。グループサウンズフアンの半分くらいは、宝塚フアンだったことに目を付けたのです。
絶対数は宝塚の方が圧倒的に多く、彼女達の根こそぎ動員を狙い、意識的にメンバー達にこのスタイルをさせたのです。狙いは見事に当たり、女性フアンを大量に獲得しました。女性が憧れるスターのファッションですから、真似する男が出てくるのも当然のことでした。
ルールやマナーは平和の敵、
一方この頃には、学生のユニフォームの様になっていた、アイビールックに対立するファッションとして、ヒッピースタイルが登場します。
ワスプ、アングロサクソンの価値観の現れが、アイビールックならば、このファッションは思想的にその対極にあったのです。
TPOと言うルールと、浮き上がってはならないと言う、マナーの上に成り立つ、トラッド、アイビーファッションに対し、一切のマナー、ルールを無視し、他人の目は全く気にしない、と言うファッションなのです。
ベトナム戦争の泥沼化で、ワスプ、アングロサクソン的な、あらゆる事に反発する人々が出現したからです。ですから反戦平和のシンボル的ファッションと言うことになります。
ジェーンフォンダ、キャンティスバーゲン、ジョーンバエズと言った、当時の超一流のスター達が、このスタイルで、反戦平和運動の先頭に立ったのでした。この集団の中に、若き日のクリントン前大統領も居たのです。
決まったルール、マナーが無いので、どうとは説明しづらいのです。ただ言えることは、私の目からはとてつも無く奇抜で、不潔に見えただけ、と言っておきましょう。
何しろ床屋にも行かなきゃ、風呂にも入らず、夏などは新宿のロータリーで野宿していましたから。ちなみに、彼等がたむろする喫茶店等に、間違えて入ってしまったりしたら大変でした。。。。臭くて。。。
尽き果てそうなウエスタン、
1969年、この頃になりますと、アメリカの一番の象徴、ウエスタン映画も影が薄くなってきます。ベトナム戦の泥沼化の影響で、アメリカの掲げる正義の旗に、疑いを持つ人が出現したからです、前記のヒッピー達です。それでも時々はヒット、を出していました。
サムペキンパー監督の、ワイルドバンチ、です。
ローマの休日のウイリアムホールデン、翼よあれがパリの灯だ、のロバートライアン、が主演でした。既に二人とも、とっくに青年ではなくなっています。ストーリーは黒沢映画、七人の侍、のアメリカ版でした。ジョンスタージェスの、荒野の七人、の続編とも言えるでしょう。
残酷でリアルなバトルシーンが話題になりました。銃弾が突き抜けた箇所から、血が噴き出すのです。事実を事実として、飾ること、隠すこと無く、正確に観客に伝えようと言う意図でした。
この写実主義的傾向は、後の、フランシスフォードコッポラ監督、や、ベルナルトベルトリッチ監督達に受け継がれ、ゴッドファーザー、ラストエンペラー、として結実することになります。
まあ結果的に、用心棒、椿三十朗と、七人の侍、を掛け合わせたカバーの様になりました。ワイルドバンチは当時としては久々のウエスタンヒット、話題になり、事実凄く面白かったのですが、同時に、改めて、黒沢明の凄さを再確認させられたのでした。なおこの映画、現在でもレンタルビデオ店の年間貸し出し順位で、常に20位以内をキープしているそうです。
スティーブマックウィーンに憧れて!マイカー時代本格的に、
この時代一番のステータスは、何と言っても、車。既にテレビや電気冷蔵庫等の家電品は行き渡り、自家用車だけが、何としても手に入れたい最後の物でした。
この車に対する憧れが、レースシーンやカーチェイスシーンのふんだんに盛り込まれた映画をヒットさせます。ジェームスカーン、スティーブマックウィーン、ポールニューマン。等が大活躍します
グランプリ、栄光のルマン、ブリット、ゲッタウエイ、等の作品です。スリリングなレースやカーチェイスシーンに酔いしれ、自分がレーサーになったつもりで突っ走り、事故る人が増えてしまい、社会問題になったのも、この頃からなのです。
レストランも、都内のストリート型繁盛店、から、少し郊外の、広いパーキングを持つ、ドライブイン型レストランに顧客が流れるようになりました。
国道246沿いの駒沢、桜新町辺り、目黒通り沿い、成城、辺り、環状8号沿い瀬田交差点辺り、駒沢公園辺り、等に洒落たドライブインレストランが立ち並び、若者達のメッカ、デートスポット、となったのです。
深夜に、買いたてほやほやの新車を、家から持ち出しては、悪仲間を伴ってこの辺りのレストランにたむろしたのです。これも付近の住民の苦情が多く社会問題になりました。何しろ深夜ですから。この時ポテトチップでもつつくようにつまんでいたのは、大抵がピザだったのです。まだまだピザブームは続いていました。
この頃はまだ全て個人営業店ですから、店ごとに味や雰囲気が違い、皆それぞれ、お気に入りの、行きつけ、を持っていたのです。当然お店の人達や、同じ店にたむろする人達とは、友人、になったり、、、、、になったり、
新しい出会いの場、しかも同じお店がお気に入り、と言う同じ価値観の持ち主同士の出会いの場になったのでした。