少し遡って、、、恐慌から戦争の時代、
第一次大戦の復興景気で沸き上がったアメリカも、物資がヨーロッパに一渡りすると、今度は過剰生産、過剰供給を懸念する人が現れ始めました。需要より供給の方が多くなってしまうのでは、と考えた訳です。
正解なのです。今度は不況の時代を迎えるのです。それまでの好況で高くなり続けた株価が、値下がりするのではと”、、、、ヨーロッパが復興するにつれ、物品の需要が無くなってしまう、大量に作っている物が売れなくなってしまう、従って株価が大幅に下がってしまう、と言う懸念を庶民や投資家達が抱き始めました。値下がりする前に全部売ってしまえ、と言うことで、一斉に㈱が売られました。
ニューヨークの嵐、世界を吹き荒れる。
1929年秋、ニューヨークの出来事です。世界恐慌と名付けられました。
株価は暴落しました。1901年にテキサスで、次代の代替えエネルギーたる石油が発見されてから、この年1929年までの29年間アメリカ人は不景気と言う言葉を知りませんでした。殆ど30年間近い凄まじい経済成長の間に用心をすっかり忘れていました。洗いざらいのお金で、利回りの良い㈱や、値上がりを信じて土地を買っていたのです。
㈱を担保に、銀行から資金を借りていた企業は、担保価値が無くなってしまい、しかたなく、リストラを繰り返すのですが、それでも足りず、自社の工場用地などを売って、金を工面しようとしたのです。全国規模でこれをしますから、土地も値下がりしてしまいました。株と土地の現代資本主義の二本柱が、只同然に成ってしまったのです。
ニューヨークのマンハッタンでは歩行者は、上を見ながら歩く、と言われたのもこの時なのです。無論ジョークですが、一夜にして無一文になった破産者が、高層ビルの窓から身投げする事を言っているのです。こんな事がジョークになるくらい、ひどい恐慌に、たった1日で陥ったのでした。世界中に飛び火してしまい、当然日本も巻き込まれました。この当時大学生は大変なエリートで、卒業後、就職が無いなど、絶対にあり得なかったし、そんな事は考えた事も無かったでしょう。でも無くなってしまいました。余談ですが、1910年生まれの私の父も、その一人でした
”大学は出たけれど”、が合い言葉のようになりました。それ程ひどい恐慌だったのです。昭和の世界恐慌です。銀行もたくさん潰れました。各国は恐慌脱出のため、あらゆる方策を採ったのです。アメリカではニューディール政策、公共事業が中心でした。日本では満州事変、中国の富を日本の物にして恐慌脱出を計ったのです。
だまされた民主主義、銃の代わりにスマイル、
ドイツ国民は、恐慌脱出をヒットラーに託しました。最もドイツの場合は、世界恐慌のせいで不況になった訳ではなく、その前の第一次世界大戦の賠償金の支払いが原因で既に四苦八苦だったのです。フランスの厳しい要求によって、恐慌の前の、好況で有るべき筈の時代から、既に息絶え絶えでした。ですから世界恐慌はまさに、ドイツの息の根を止める結果になりました。国民一人一人に至るまで、心の底からフランスを、フランス人を憎むようになっていたのです。この増悪の気持ちがやがて悪魔を生み出します。
憧れのスター、実は虐殺者、
政権を取るまでのヒットラーは、女性達からは、映画スターの様な扱いを受けて、大変な人気を誇っていたのです。ナチ党はヒットラーやゲーリングのプロマイドを大量に作り、売りまくりました。無論資金源として。演説や集会の時も、毎回、衣装やネクタイなどに気を配り、彼がどんな柄のネクタイ、どんなスーツを着ていたか、等が支持者達の間の大きな話題、になったのです。無論、本場のオーデコロンも。そして公約も耳に優しい福祉をうたい文句のように唱え、始めの内は、外交、防衛イデオロギー等は殆ど口にしなかったのです。第一次大戦の賠償金の支払いを辞めること、これが大きな公約でした。これは約束どうり実行されました。
母や娘や、彼女や、場合によっては子供達にも大人気、好感度抜群の、柔和でお洒落な若手政治家。青少年を率いた時は制服姿も凛々しい、頼りになる指導者。一度壇上で口を開けば、正義の使者の様なポーズ、キッパリとした言葉使い、ドイツ国民が言いたくても言えなかった、戦勝国への物言い。これら諸々の作戦が功を奏し、女子供の人気者から、次第にその家族や友人の男どもへ、支持者が広がったのです。そして政権奪取が確実に成った頃から、次第に牙を剥くことに成るのです。本来の目的であるユダヤ人攻撃が始まりました。(1932年頃)フランス憎しの気持ちを、巧みにユダヤとすり替えたのです。
当時ユダヤ人は、ヨーロッパ各地に、居住していました。無論、ユダヤの国は四世紀以来、有りません。いわば国を持たない流浪の民、になっていたのです。しかしこれだけでそんなに嫌われる理由は無いのです。何故嫌われたのでしょう。キリストを殺した裏切り者と言うのが、表向きの理由ですが、それだけではないはずです。キリストだってユダヤ人ですから。イスラエルの地を追われ、ヨーロッパを流れ流れ、ポルトガル、スペイン、フランス、ドイツ、ポーランド、ハンガリー、チェコ、そしてロシア、とヨーロッパ各地に住み着いたのです。無論これ以外にもスイスやベルギー、オランダそしてイギリスにも。
中でも、ポーランドや現在のチェコ西部、ドイツとの国境を接する辺り、ボヘミアと呼ばれる地方には、多くのユダヤ民族が住み着いたのです。無論大きな差別感情を持たれていましたから、なかなか定職には付けませんでした。音楽や、演劇詩歌に才能のある者達は、ユダヤ人であることを隠して、ヨーロッパや、小アジアで活動して歩いたのです。自らをエジプト人であると偽って。エジプシャン、ジプシーの誕生になりました。詩のことをポエムと言うのも、彼等が大勢住んだ、ボヘミアが語源になっているのです。
彼等は、どこに住んでも、優秀で、子供達は、地元の学校では、常に上位の成績でした。大学でも同じ事です。極めて優秀でした。社会人達も、怠けると言うことを知らない働き者です。
学業優秀な者達が、働き者になるわけですから、皆お金持ちになりました。この事は、2000年前から続いているのです。ですから何もなければ、ヨーロッパ社会で上流階級を占めているはずなのです。しかしこんな状態を、政府当局が喜ばないのです。
自国民を差し置いて、ユダヤ人だけが裕福になり、その国の富を独り占めする結果になると考えるからです。ユダヤ人達は、違法なことは一切しないで、真面目に勉強して、まじめに働いて、お金持ちになったのですから、誰からも文句を言われる筋合いは無いはずです。学校に例えれば、50人ぐらいのクラスで、10人未満のユダヤ人の子弟が、上位を占めます。その下に、地元の子供が続くのです。ヨーロッパ中どこでもそうです。
決定的なことは、彼等は、キリスト教徒では無いのです。ユダヤ教徒なのです。つまりヨーロッパ人からすれば、異教徒に、頭を押さえられ、自分達の良いところを、全部奪われてしまったように映ったのでしょう。その上彼等は、ほんの一部を除いて、まとまって住んでいました。仕事や学校などで表に出てくるときは、地元の人と同じ恰好を、むしろ地元の人以上に、礼儀正しい、きちんとした恰好をしていますが、家に帰ると、黒白の、無彩色の服になります。
ユダヤ人だけの村ですから、辺り一帯が、無彩色になってしまいます。村にはユダヤ教のお寺、シナゴーグが堂々と辺りを睥睨しています。十字架ではなく、ユダヤのシンボル、六房星が輝いています。村全部がユダヤ人の村なので一般人は、場合によっては入り口で、チェックされることも、人々は自分のことは棚に上げて、何かにつけてイチャモンをつけたくなるのでした。
景気が良くて、一般国民も、金回りが良いときは良いのですが、不景気、恐慌などになると、槍玉に上がることになります。一般人を後目に、ユダヤ人だけが、裕福に見えるからです。日ごろの努力、勤勉のおかげで、一般国民より蓄えや、資産が多いのです。国は何かと理由を付けては、彼等の財産を奪うのです。かつては、魔女狩り、これも実際は異端の名を借りたユダヤ人狩りでした。帝政ロシアのポグラム、一〇〇〇万以上のユダヤ人が虐殺、追放の憂き目を見ました。それからヒトラーのホロコースト、六〇〇万以上が虐殺されました。戦後はソ連のスターリンも、1000万とも、2000万とも、スパイの嫌疑で虐殺、シベリヤ流刑等で迫害されました。
ソ連は鉄のカーテンと呼ばれるほど、秘密主義だったので詳しい数は定かではありませんが。追放、虐殺の度に、彼等ユダヤ人の財産は、その国に奪われるのです。
ナチスは、虐殺死体から、金歯を取り出し、さらに油を絞って、石鹸まで作ったのです。収容所のユダヤ人達は、この石鹸を与えられました。生体実験の材料にもしました。ジョセフメンゲルとそのグループです。この実験に従事した医師、技師の多くが戦後アメリカに渡りました。研究成果と引き替えに、戦犯の罪を免れ、アメリカに移住させられたのです。本来なら確実に絞首刑の筈なのですが。以来アメリカの医学は、ドイツを追い越し、世界一の水準に達しました。今でも年寄りの医者はドイツ語を好んで使い、若い医者は、英語を使います。ドイツが、医学世界一であった証です。今はアメリカ、絶対に許されない生体実験の結果です。
同じ話は日本にもあります。ドイツほど大掛かりではありませんが、悪魔の飽食で有名な、満州731部隊の話です。スパイやゲリラの嫌疑を掛けられた、中国人、丸太と呼んだ、を生体実験に使い、虐殺したのです。逆です、丸太が欲しいときは、誰かを、いては都合の悪い人を、スパイにして、生体実験したのです。部隊長の石井軍医中将の名を取り、石井部隊と呼ばれました。これも本来なら戦犯として裁かれるはずでしたが、アメリカは、研究成果と引き替えに、無罪放免したのです。全員。
こうして四世紀、イスラエル王国が滅亡して以来、世界を流浪し、行く先々、国々で、地位と、富を築きながら、度々の、虐殺追放により、ユダヤ民族は未だに12-300万人しかいないのです。世界中を合わせても。本来なら2億人位いてもおかしくはないのですが。そうして、虐殺追放、が行われる度に、アメリカへ逃げていくのでした。1945年にイスラエルが建国されてからもこの傾向はあまり変わりません。虐殺は無くなりましたが。ともかく凄い差別が有った、今でも差別の気持ちを持ったヨーロッパ人は多いでしょう。こんな理由でナチスは、ユダヤ人攻撃を、国策として行いました。
この頃には、ドイツ国民は洗脳されてしまっており、街からユダヤ人を追い出そうと、財産を没収しようと、虐殺さえしなければ、誰も文句は言わなく成っていたのです。
実際には大戦が始まってから直ぐに(1939)虐殺は行われたのですが、この事は隠し通したのです。例え親しくつき合っていた、ユダヤ系の友人が、逮捕連行されても、可愛そうだけどしょうがない、位にしか思わなくなっていました。
またユダヤ人に対する迫害、虐殺の可能性に気づいていれば、日本も三国同盟などは多分結ばなかったでしょう。ともかく戦前、ヒトラーの人気は日本でも凄まじく、特に女学校生や、都会の若い主婦と言った、比較的高学歴で、裕福な婦女子の間では、上原謙(加山雄三さんの父親、日本有数の二枚目スター)やエロールフリン、フレッドアステア等の銀幕のスター並みでした。ブロマイドもたくさん売れました。
この事でも解るようにまさか鬼神もたじろぐような、迫害、虐殺者で有るなどとは、誰も知りませんでした。いまだに、事実を信じず、ヒトラーを好きなお婆さんは結構いるのです。大正生まれ、までの年齢のお婆さんで、東京や大阪と言った大都市で女学校に通った人に限りますが、、、。そんな人がいたら、今の内に聞いておきましょう。
ナチスは最終目的の為に、ファッションやポーズ、ムードと言った、極めて文化的な物事を、最大限に利用して政権を勝ち取った、最初の政党でした。大抵は買収や暴力、脅迫と言った違法な手段で政権を勝ち取り、その後独裁者に成るのですが、ナチスはあくまでも合法的に、選挙で権力を得たのです。これらの作戦宣伝を考え実行したのは、ゲッペルスと言う怪物でした。彼の活動は今でも、広告宣伝分野の、お手本に成っている程です。宣伝次第で、政党までが流行になる、と言う事の最初の例に成りました。
このように1929年にアメリカで発生した、世界恐慌は短時間に世界中を駆けめぐり、各国の政府に、慌ただしい対応策、を取らざるを得なく、させてしまったのです。
日独伊三国は同盟を結び、米英仏蘭と言った広い国土や植民地をたくさん持っている国々を、相手取って、戦争への道をひた走ったのでした。
似たような状況の国、ドイツ、イタリア、日本、は恐慌脱出の方策も、殆ど同じだったのです。国産品愛用、国産文化の尊重、等の事を言っている内は、良いのですが、その内、外国品締め出し、外国文化の排撃、などという感情的な事に成ってくるのです。そして手を取り合って、破滅へ向かいました。
ジャズは戦中の1910年代に産声を上げ、1930年代には最高の人気を博し、正に庶民の流行歌としてだけでなく、文化的にも他のジャンルを圧倒し、あらゆる分野でジャズ文化、ジャズ的表現として花開いたのです。有史以来続いた文化の発信源を、王侯貴族、資産家、有名人、軍人、などの上流階級から取上、庶民の物にした、その最初の文化になりました。正に庶民がハイソサエティになりました。
しかし1929年に恐慌に突入し、人々の心が疲れ果ててくると、お祭りソングで賑やかなスタンダードなジャズは好まれなくなりました。代わりに少人数で、気のあった仲間とささやかに楽しむ音楽、が好まれるようになるのです。会場もマナーやルールにうるさい、きらびやかな大劇場から、服装や言葉使いなど気にしない、下町のクラブなどに変わってきます。結果的にオーケストラ、ビッグバンド団員は失業と言うことになりました。今度は下町のクラブでのこじんまりしたジャズが主流、流行の先端になってきました。ギャラも安く、オーケストラは不要なのです。
歴史的大恐慌の結果、経費のかかるオーケストラやビッグバンドは維持できなくなりました。人数を最小限にして、経費の節約が、興行界の急務でした。ギャラの高い白人より、安い黒人に目が向けられたのも必然です。伝説的大スター、デュークエリントン、ルイアームストロング、等がスターダムに上がったのです。
大劇場には出演出来ませんでしたが、もはや大劇場は流行遅れ。出演する必要は無くなっていたのです。人数の少ない分、その演奏も、より即興生が強くなり、バンド名よりも個人名がスター生を帯びてくるのです。
大掛かりだった白人達のジャズは、この時 黒人達のブルースの影響を、強く受けることになります。モダンジャズと言うネーミングはまだですが、実質上はこの1929年の金融恐慌が、10年後のチャーリーパーカー等によるモダンジャズの、基盤を作り出した、のではと考えています。
この下町のクラブから発信されたジャズ、これが最先端ジャズとして世界を駆けめぐったのです。ですから、1930年代のジャズと一口に言っても、比較的解りやすく素人受けのするスタンダードジャズと、ナイトクラブから発信された即興性の強い小人数ジャズとの2本立てになっているのです。そしてこの小人数ジャズが、やがてモダンジャズへと進化することになります。現在では初期のスタンダードなジャズはポピュラーにしてしまっている人も多いように思えますが、私はそうは思ってはいません。