戦艦大和の最後
1945(s20)4月7日、大和は危機に瀕する沖縄目指して進撃します。開戦前山本元帥達航空派の提督達と、争い、航空攻撃に反対しあくまで、戦艦の巨砲で雌雄を決するべきだと言い張った、大艦巨砲主義の人が長官です。この人達の主張が通り、大和と武蔵が、建造されたのです。航空派と大鑑巨砲派の議論の末、中をとって2隻が建造されました。いわば大和の生みの親とも言える人なのです。伊藤整一中将、この前までは大本営軍令部次長の職に有り、結果的に生みの親が最期を看取ると言うことになりました。
伊藤長官はこの攻撃命令が特攻(特別攻撃)であることを察し、見習士官、少尉候補生や、航空要員などの、不要不急の人員を、あたら命を無駄にすることはない、と言って退艦させてしまいます。瀬戸内海を真夜に出港し、豊後水道を通り、種子島の前を西に進み鹿児島の坊の岬の前を通り、少し先から南、沖縄を目指します。付き従うは軽巡1,駆逐艦8、一路沖縄へ。
一説には大和は、片道分の燃料で出撃したことになっていますが、これは嘘。悲壮感を増すための、後付演出なのです。実際には徳山の燃料廠は”片道分でも良いよ”と言う伊藤長官の申し出を”ふざけるなと”一蹴し、満タンにしてしまいます。これが真実なのです。これで徳山燃料廠は、からっけつ、スッカラカンに成りました。
この頃になると、陸軍の狂信的、ごく一部の、青年将校が本土決戦などと、騒ぎ立てていますが、殆どの軍人は、国民も含めて”いつまでこんな戦争やっているんだ”と言う気持ちになっていたのです。従って”大砲や飛行機が無くなれば、戦争は終わるだろう”と言う気持ちが非常に強くなっていました。油もそうです。”これが無けりゃ、戦争もできないだろう、有るだけ入れちまえ”と言う気持ちが非常に強かったのでしょう。
これは私の推測ですが、大和部隊に補給した結果、あのでかい徳山の燃料タンクが、空っぽになったのは紛れもない事実なのです。子供の頃に現場体験者だった方々から、幾度と無く、聞かされました。元々燃料が欲しくて始めた戦争だったのですが。余談です。
大和部隊は極秘裏に出港したつもりでも、豊後水道の出口で、アメリカ潜水艦に見付かってしまいます。刻々と報告されて行くのが、大和艦橋でも、聞こえます。この頃にはアメリカは大っぴらに無線を発し、潜水艦などは水上走行しながら、堂々と後を付けたりしていました。
大和出撃の報を聞いた鹿児島の知覧基地では、特攻機護衛の零戦が、強引に護衛を申し出ます。10機程の零戦が、知覧から大隅海峡を進撃する大和の上空に飛来します。燃料ぎりぎりまで上空直援をします。正午、これ以上居ると燃料不足で帰れなくなるので、10機の零戦は、羽根をバンクさせながら、帰って行きました。
護衛の駆逐艦、朝霜は機関が故障し、やがて止まってしまいます。一隻減った艦隊は、そのまま沖縄目指して一路南下します。
この頃アメリカ艦隊は、ミッチャー中将の空母部隊が、大和撃滅のために準備万端整え、攻撃圏に入るや否や、出撃するよう待ちかまえていました。
そこへデイヨー小将の戦艦部隊が、待ったをかけます。”此処は俺の受け持ちだ、俺にやらせろ”と。
本来はデイヨーの戦艦部隊の受け持ち区域でしたが、大和出撃の報を聞いて、ミッチャーが空母部隊を独断で、呼び寄せたのです。結局早い者勝ち、飛行機の方が早いに決まっています。護衛のゼロ戦が帰った後、30分後には120機程の第一派が襲ってきました。この日は薄曇り、上空1000㍍の所に雲が薄くかかっているので対空射撃が非常にやりにくいのです。
なぜなら、対空砲を撃つ場合は、上空3000㍍位から、目視し、狙いを付け、2500㍍位から、射撃を始めます。一方攻撃側、雷撃機3000㍍位の高度で飛んできては2000㍍程手前から高度150㍍位を水平飛行し、500㍍位に近づいて放ちます。
爆撃は、高度3000㍍位から急降下し、高度600㍍くらいで爆弾を放ちます。
これでお解りでしょうが、急降下爆撃の場合は、急降下を始める場所から、狙いを付け、すぐに撃ち始めれば、例え命中しなくともパイロットは自分に向かってくる機銃弾が怖くなり、思わず爆撃コースを外してしまうのです。雷撃も、低空飛行になる直前から目視し、射撃を始めます。パイロットは、思わず目をつむってしまい僅かにコースを外したり、所定の位置まで来ない内に魚雷を放ってしまったり、これが狙いでした。
それが出来ないのです。高度1000㍍までしか見えませんから敵機はいきなり目の前に出現するのです。慌てて狙いを付けて撃ちますが、飛行機は動きが速いので、機銃回転が追いつきません。日本の機銃は初速が遅く、その為敵機の前、前、と狙わなければならないのですが、それが出来ないのです。いきなり目の前に現れ、対空陣を翻弄しながら、機銃掃射をする、グラマンやコルセア戦闘機、その間隙を縫って襲ってくるアベンジャー雷撃機、ヘルダイバー急降下爆撃機、気が狂ったように撃ち続けますが、いっこうに命中しません。
降下爆弾が後部艦橋近くで炸裂し、そのあたりの機銃陣地が潰れました。さらに左舷前部に魚雷が一本命中しました。第一次攻撃の被害はこれだけでした。魚雷も一本ぐらいでは大和はびくともしませんから、何事もなかったように進撃します。機銃員達は熱くなった機銃に海水をかけて冷やしています。そのまま次の戦闘をすると熱で銃身が曲がってしまいます。演習の時は海水はかけません、後でさび付いてしまいますから。しかしこれは生きて帰ることのない特攻でした。
30分後に第二波の120機が襲ってきました。大和の主砲が火を噴きました。例の三式弾ですが、シブヤン海の武蔵の時に秘密がばれていますから、発砲と同時に編隊を解いてしまい効果はありませんでした。これが46センチ砲の最後の雄叫びになりました。この攻撃で大和は爆弾4発、魚雷5本を左舷に集中的に受けてしまいます。武蔵の時、左右同時に攻撃して、なかなか沈められなかったことを、アメリカは反省してきたのです。雷撃を左舷に集中してきました。この攻撃で大和は左舷に15度ほど傾いてしまいます。左舷ばかりあまりの被害に、右舷の注水が間に合いません。次の攻撃までに傾きは復元できませんでした。
さらに30分後、第三波の100機が襲ってきました。これも左舷ばかり狙ってきます。最早速度も20ノット(37㎞)くらいしか出ません。大和にとって悪いことは、魚雷を回避するために、右に左に転蛇する内に、傷口が大きくなってしまいました。さらに3本の魚雷が、左舷に命中し、傾斜が20度を超えてしまいます。伊藤長官は此処に作戦終了を宣言します。
すかさず有賀幸作艦長(大佐)は総員退艦を命じます。退艦を促す周りの幕僚達の言葉を退け、艦と共に運命を共にすることを宣します。艦長は艦橋が持ち場ですから、従兵に命じ羅針器に縛り付ける事を命じます。艦が沈む時浮き上がって救助される事が、よくあるのです。伊藤長官はやはり艦と共に運命を共にしますが、この人は作戦終了を宣言するや、すかさず自分の部屋へ閉じこもり、中から鍵をかけてしまいます。
こうして2時間半に渡る三次の攻撃で、左舷に魚雷8本、爆弾4発、を受け、とうとう止まってしまいました。傾斜も30度になりました。放って置いても沈むのは時間の問題でしたが、止めの一撃の魚雷が撃ち込まれました。傾斜した艦のお腹、艦底に命中したのです。此処は大和のアキレス腱、設計段階から懸念されていたところでした。未だ逃げ切れず、必死に逃げ出そうともがいている2500名以上の将兵を乗せたまま、一挙に沈んで行きました。そして艦体が見えなくなった瞬間、46センチ主砲の三式焼夷弾が大爆発を起こし、勢いで少し浮かび上がり二つに折れて沈みました。500㍍の海底へ。この海戦で大和の乗組員は250名ほどが救助されました。
米機の撃墜はたった10機。ハリネズミのような対空火器でやっと10機、悲惨な戦いになりました。せめてもの救いは、大和が攻撃を一手に引き受けたため、九州からの特攻機が、僅かばかりの戦果を上げられたことでしょう。戦況にはなんの影響も有りませんでしたが。
デイヨー小将の戦艦部隊は大和目指して急進していましたが、到着前に大和は沈んでしまいました。戦艦が戦場に到着することは最早不可能になっていたのです。デイヨー少将とて、戦艦が過去の遺物になったことぐらいは、百も承知なのですが、最後の檜舞台に上がってみたかったのでしょう。戦後60年、今になれば大和とアメリカ戦艦7隻、戦わせてみたかったような気もします。不謹慎だとは思いますが。
繋がれた戦艦
この大和特攻、菊水作戦で燃料を使い果たした海軍は、以後戦艦を動かすことは有りませんでした。呉軍港に係留し、網をかけ木の枝等で、飛行機からは島のように見えるように偽装し、防空砲台にしたのです。15センチ副砲は取り外し、東京湾や大阪湾の要塞に持っていきました。対空機銃も死角が大きい場所の物は取り外し、古鷹山や、他の高台へ、設置しました。艦橋頭部の見張り用望遠鏡もそれぞれの場所へ持ち去られました。
最早立ち向かう敵を持たないアメリカ機は、我が物顔に呉軍港を襲います。それでも偽装係留された榛名、伊勢、日向、それにかつては世界の七大戦艦の一隻と称され、国民の羨望と期待の的だった、長門、この四隻が対空戦闘に専念すると案外威力があり、米機もたまには撃墜されることがあります。アメリカは、この4戦艦に総掛かりで攻撃を集中します。7月に榛名、伊勢、日向が大破着底させられます。海が浅いので沈んでいるようには見えませんが、最早戦闘力は無くなりました。
長門一隻だけが、艦橋部分に500㎞爆弾を受け、外見はかなりやられているように見えますが、1945年7月時点で、日本戦艦中、油さえ有れば唯一戦闘可能な、戦艦になりました。長門は帝国海軍最後の戦艦になったのでした。
8月終戦、完璧な敗戦を向かえました。
開戦前の、1941年9月、ここ柱島に係留中の連合艦隊旗艦、戦艦長門艦上で山本五十六司令長官が主催し、関院の宮軍令部総長臨席のもと、日米開戦後の戦況推移のシュミレーション、図上演習が行われました。今なら電卓やパソコンを駆使して確立や統計、技術や戦力、持久力等々をもとに推定していくのでしょう。この時代パソコンや電卓は有りませんから、確立はもっぱらサイコロ任せ、統計は計算尺と算盤です。朝の九時から後部最上甲板、4番主砲の前にテントを張り、畳10枚ほどの太平洋とその周辺部の地図を広げ、幕僚達は日本艦隊とアメリカ艦隊に分かれ、知力の限りを尽くし作戦行動を起こします。
戦闘場面では、サイコロを振ります。船はアメリカ10、日本6の割合で、飛行機は日本10に対しアメリカも10として、無論このほかにも予想される生産力や国民性、兵員の熟練度等を推定しデータに入れるのです。日本もアメリカもスパイを互いに大勢送り込み、情報を得ています。こうした結果を踏まえ、個々の戦闘場面になる度に幕僚達は所定回数サイコロを振るのです。
結果は、開戦後1-1年半は日本が優勢、その後半年拮抗状態になり、3年目ぐらいから明らかに劣勢になり、3年半から4年で日本中が焦土となり、東京が占領されてしまうのです。連合艦隊は3年で全滅です。幕僚達はこんな筈はないと血相を変え何度もサイコロを振り直します。結果は同じでした。宮様総長を始め幕僚達が意気消沈して居る中、山本長官だけが静かに、平然と立っています。
”これでもアメリカと戦争をしますか”と言わんばかりに。
何年も前から、山本長官が日米開戦に猛烈に反対し、引き金になる三国同盟に猛反対をしたのは、この結果が読めていたからなのです。強行に日米開戦に反対しながら、真珠湾攻撃の準備万端を整えなければならなかった立場を、山本長官はどんな気持ちで日々を過ごしたのでしょうか。複雑だったでしょう。。。
戦局の推移は全くこの図上演習の通りになりました。サイコロの目で国の行く末を決めたとは言え、まさかこれ程正確に未来予測が出来るなんて、誰も思いたくなかったのでしょう。コンピューターなど無い時代でも、英知を尽くせば数年後くらい先なら、読めると言う証明にはなったでしょうが、都合の良い情報や結果だけ取り入れ、都合が悪いと、無かったことにしてしまう、その結果が原爆、敗戦、大日本帝国の解体になりました。多分山本長官はこの時点で、死を覚悟したのでしょう。パールハーバーの三ヶ月前の事でした。
長門だけが、老体を浮かべていました。艦橋部分に直撃を受けた長門は、仲間が死に絶え顔をくしゃくしゃにして、涙を流す老人のようでした。
1946年7月、死出の航海
陸に上がった長門の、機関や航海関係の旧乗組員に召集がかかりました。最低限の人数ですから、100人ほどです。レイテ海戦いらいの燃料補給、行き先は墓場、、、
ビキニ環礁の原爆実験の標的艦にされるのです。日本の船はこのほかに軽巡酒河、他にはアメリカの空母サラトガ、大戦中あれ程暴れ回り、日本海軍が目の敵にしていた船です。他にもドイツ重巡プリンツオイゲン他大小20隻ほどの艦船が爆心を中心にして、所定の距離に同心円に並べられました。
9月21日午後一時、突然太陽が爆発したような強烈な熱線と共に、殆どの船はなぎ倒されます。原爆の威力は物凄く熱線の後に、津波が押し寄せ、僅かに生き延びた船も転覆沈没しました。海が静かになりおそるおそる顔を上げた、実験監視団の目に、只一隻だけ生き残った船が見えます。
長門です、原爆に耐えたのです。監視団の全員が賞賛の声を上げました。長門は敗れてなを、その造艦技術の凄さを、勝利者達に見せ付けたのです。翌日も長門は浮いていました。技術者達は原爆の威力や、造艦の成果、の分析をするため、放射能の影響が少なくなる五日後に、長門に乗り込み各種調査を行うことにしました。翌日もその翌日も4日目になっても長門は静かに漂っていました。
調査団の面々は、”さあ明日は長門に行くぞ”と言って寝床に入りました。
翌朝、五日目の朝です。長門が居ません。大騒ぎになりました、沈んだのです。
誇り高い長門は、造艦技術の高さを示すため、日本人のすばらしさを示すため、雄々しく浮いていましたが、”いまさら解剖などされてたまるか、静かに死なせろ”とばかりにビキニの海の底へ行ってしまいました。大正年間に建造され、大戦中はろくな整備もされていませんから、あちこちにガタが来ていたのでしょう。四日間浮いている内に多少でも手当をすれば、助かったのかも知れませんが、長門は生きることを望まなかったでしょう。12隻の日本戦艦中、最後の一隻になってしまった長門は、疲れ切っていたのでしょう。早く皆の所へ行きたかったのでしょう
皆が寝静まった真夜中、26年の生涯に幕を引いたのです。静かに静かに鼓動を止めました。
今長門は、ビキニの海で静かに眠っています。流した血や涙、叶わなかった希望や、思う存分働けなかった無念、何もかも体の中に閉じこめて、静かに横たわっているのです。海の生き物達の、暖かいしとねになって眠っています、これからもずっと、、、 2005(平成17年)12月19日米澤徹