超弩級の気配
なけなしの予算を旧式艦建造のために無駄使いした、海軍は、ここに主力艦国産化計画を、一時思い止まります。これ以降の建造は、ドレッドノートやインビンシブルを凌ぐ船でなければならないのです。いわゆる超弩(ド)級を持たねば、海軍としては、全く無意味だし国民に対して、顔向けできないのです。その為にも同盟中のイギリスに設計建造を頼むことにしました。
当時世界一の海軍国の地位を維持するために、英国はポストドレッドノート、ポストインビンシブル、の超弩級艦を完成させていました。余談ですが現在も使われている、超弩級の迫力とか、値段とか、切れ味とか、みなこの時代に紙上をにぎわしたのです。超弩(ド)級のド(弩)とは、このドレッドノートのド(弩)のことなのです。これからも語源は忘れ去られても、使い続けられるのでしょう。話を戻します。
最後の外国製主力艦
このポストインビンシブルの巡洋戦艦、これがライオンです。それまでの30センチ砲を34センチにし大幅な火力強化を計りました。このライオンをベースに、34センチ砲を更に36センチ砲にし、砲塔配列に改良を加えた船を、明治43年(1910)英国に発注しました。無論設計は英国です。日本初の超弩級巡洋戦艦、金剛です。完成引き渡しは大正三年(1914)で、完成時には世界最大の主砲で、日本最後の外国製主力艦になりました。
ですから日露戦の翌年、1906年から世界は弩級艦時代に突入しますが、超弩級艦の金剛が、完成する1914年(大正三年)まで8年間、日本はドレッドノートクラスの戦艦が一隻もない、世界的には二流の海軍だったのです。
この金剛の図面に多少の改良を加え他に、三隻の同型艦を建造する事になりました。比叡、榛名、霧島、の各艦です。この金剛、比叡、霧島、榛名、の高速巡洋戦艦がセットになり、日本も英国並みの、高速艦隊を持てる事になりました。
弩級と超弩級の違いは、弩級より更に大きくなった、主砲の全てを、艦の中心線上に背負い式に配置し、右も左も一斉に撃てるようになり、さらにスピードも、5.5㎞から10㎞近く早くなりました。弩級艦では背負い式に配置された主砲は一部だけで、舷側部分にも配置されています。従って反対側に撃てない主砲が必ず有るのです。
この時代の海戦は、帆船時代とは違い、海戦距離が、遠くなり、両側同時に主砲を撃つことはあり得なくなっていたのです。超弩級は弩級に比べ、連装主砲四基8門、五基10門、叉は六基12門全部が敵に向けられるのです。また弩級艦には副砲は有りません、多少付いていても、その数はごく僅かでした。全てを主砲で統一していますから、近距離の駆逐艦や水雷底には、弱いのです。その点超弩級艦は主砲を前後、中間部に統一していますから空いたスペースに多数の副砲や小型砲を積めるので、近接戦にも、対応できるのです。
防御力も日本海の教訓で船の中央に有る、機関や火薬庫等の、重要部分(バイタルパート)を、絶対打ち抜かれない分厚い装甲板で囲い、船の前後にある兵員居住区や食堂等の、直接戦闘に係わりのない部分、は小さな隔壁で区切り、被害をその部分だけで食い止めるような、いわゆる集中防御方式に変わりました。この結果日本海海戦の時代は、15000トンクラスだった主力艦は、第一次大戦までの10年間に22000トン、23000トンと大幅に巨大化することになりました。