レストラン戦争回顧録
ファミレス時代幕開け、
始めはお金持ちしか行けませんでした。1972頃チェーン店型大型レストラン登場。
中央線沿線、東京郊外の個人スーパーの2階で細々と営業しているイタリアン系レストラン、がありました。その名をスカイブルー(仮称)と言います。この年、交通量の多い街道沿いや郊外に殆ど同時とも思える時期に新店を開店。駅前、商店街等の好立地と思われていた場所を避け、車だけしか通らない様な、へんぴな場所に、次々と開店。1年以内で5-6店になりました。
近隣にはろくに住宅も無く、畑や雑木林の中に、正に野中の一軒家、と言った状態でした。
バス停すら近くには無いような場所、が多かったのです。つまり歩いては絶対に行けない場所だったのです。
当時は昨今の様に、自転車を多用する習慣も無く、唯一の手段はマイカーかタクシーしか有りませんでした。しかも現在と違い、当時マイカーを所持する家庭と言うのは、現在に比べ、格段のお金持ち、ハイソサエティーだったのです。
つまり、お金持ちしか初期のファミレスには、行けなかったのです。
当時は未だ、高度成長の最中、小規模チエーンのため価格も個人店と大差がなく、本当に金持ちしか自動車を持っていませんから、駐車場の無い街のレストランも、さして痛痒を感じなかったのです。もっとも車は凄い勢いで売れていましたから、数年もしないうちに、駐車場の無い店は、大変な事になる、と言うことは充分に予測していたのですが。
ともかくこの後の、第一次オイルショックまでの数年間は、チエーン店も個人店も、同じ土俵で共存共栄をしていました。それでも、お金持ちのお客さんの中でも、若い人達は駅前のレストランから足が遠のきました。親爺の車を持ち出して、彼女とファミレスへ行ったのです。ガサガサした煩雑な街のレストランより、広々して、うやうやしい、ファミレスの方が、お洒落だったのです。いくら当時でも、路上に場所を探して、おまけに駐車違反の心配をしながら食事をするより、安心して車が置けて、ゆったりした気持ちで食事できる、ファミレスの方が良いに決まっています。
外見が命、伝統はどぶへ捨てろ、
かくして共存共栄とは言いながら、明日に繋がる、ヤングリッチは、トップファッションと共にファミレスに取られてしまいました。後に残った、余りファッショナブルとは言い難い年輩のお客さんと、若くともどちらかと言うと、がさつな男共が、ひたすら味とボリュームを求めて、街のレストランのお客さんとして残ったのです。
色気より食い気
店の方ではムードを出そうとして、キャンドルを各テーブルに出したりするのですが、そんなお客さんばかりですから、ムードもヘチマも無いのです。
タバコを吸う度に格好のライター代わりになるのです。おしぼりの袋を、風船を割るように破裂させてみたり、コース料理を順番に食えず、全部一度に並べないと気の済まない奴がいたり、隣の客のパンを食っちゃう奴がいたり、歯をほじくった爪楊枝でピクルス突っつく奴がいたり、全くどうしようもない状態になりました。
何しろ、まともなお客さんは全部、ファミレスに取られているのですから。そんな状態でも、ともかく高度成長の続いている間は、街のレストランは、一見、繁盛していたのです。繁盛の内容さえ気にしなければ。。。
アラブの陰謀、アブラ高騰、
この車の売れ行きが、長きに渡る高度成長の後半部を支えていたのです、が、ひととおり行き渡り、人々の行楽シーンが、バスや電車から、マイカーに変わったところへ、オイルショックが来たのです。石油の消費量が最高になった頃を見計らって、サウジアラビアのヤマニ石油大臣は、原油の大幅値上げを宣言したのです。
その時には5-6店だったチエーン店は80店以上に増えていました。オイルショックで何もかも大変な値上がりをしているのに、チエーン店の方は、数の論理で、メニュー価格も個人店より遙かに安く、おまけにこの頃になると、殆どの人はマイカーで行楽に出かけるようになったのです。車もこれだけ増えれば取り締まりも厳しくなり、路上駐車は絶対に出来ません。
お金持ちでは無い庶民が車を持った訳ですから、レストランも高いよりは安い方が良いのです。街のレストランでは、オイルショックで仕入れや光熱費ETC,全て値上がりしてしまい、メニュー価格の引き下げなど、出来ない状態でした。むしろ値上げをしたかったのです。
まして駐車場をたくさん確保するなど、絶対に無理なのでした。ここにチエーン店と個人店の共存関係は終わりを告げたのです。後は意地っ張りな個人店だけが、細々と暖簾を守るだけになりました。大半以上は、廃業の憂き目を見たのです。
末期のニューヨークフレンチ、
まあ今と明らかに違うのは、この頃は巷に溢れた、ニューヨークフレンチレストランよりもファミリーレストランチエーンの方が珍しかったと言うことなのです。
画一的な挨拶、何処で食べても同じ味で同じ値段、どの店も同じ雰囲気、こんなことは当時全く珍しかったのです。第一次ファミレスブーム、と言う状況になりました。
それまでは誰も事業の対象と考えなかった、飲食業を、外食産業と言うビッグビジネスにしてしまったのが、ファミレスと言われているチエーン店レストランでした。
もっともアメリカにはこの形態は既に大きな産業形態として確立されていました。
有名なのはデニーズ、ピザハット、シェーキーズ、それにファーストフードから、マクドナルド、ケンタッキーフライドチキンETCーーです。
アメリカに学んだファミレス、
60年代後半から70年代初頭にかけて、多くの企業家がアメリカ詣でを繰り返したのです。まあ留学と言うか、研修と言うか、そして独自資本でチエーン展開する者もいれば、USA店と合資したり、業務提携したりする者もいたのです。
民族派か外資導入派かはメニューを見ると直ぐに解りました。民族派には当時大流行した、ショウガ焼きのメニューが有ったのです。外資派にはこれが無かったのです。牛豚は言うに及ばず、ハンバーグ、チキン、からシーフード、ポテト、等までこの味付けでしたから。外資系には箸も有りませんでした。もっともこの状態は初期のほんの一時の事で一年もしない内に、外資系店にもショウガ焼きが加わりました。
多分気が付いたのでしょう。料理人がいない店で、美味しい物を食べさせようとすれば、醤油を使うのが一番だ、と言うことに。私自身、怪しい店で仕方なしに、何かを食べる場合、しょうゆ味かもしくは、みそ味の料理を注文しています。理由は簡単、はずれが少ないのです。話がそれました。
手軽に開店、気軽に閉店、客はたまったもんじゃない、
飲食店と言うのは実に手軽な事業で、開店、開業も、それ程のノウハウや資金を必要とはしません。立地条件にもよりますが、小規模な物(14-5坪まで)であれば、美味しくはなくとも不味くない程度のコーヒーや炒飯が作れれば、そして平均的サラリーマンの年収の50%程度のお金(現在で3-400万円)が有れば可能です。無論借金でも良いのです。つまり誰でも開店は出来るのです。しかし長年に渡って顧客を確保し繁盛し続けるのは、至難の業となるのです。
そんな訳で、万博以降オイルショックまでの数年間は、雨後のタケノコ、の様にそこらじゅう、レストランだらけ、喫茶店だらけになったのでした。一寸したビルの一画には、必ず、喫茶レストラン学院、などと言う専門学校が開校しました。
どんな職業も、5年も10年も修業、研鑽してやっと開店開業の運びになる、と言う習慣、はこの時点で終わりになりました。入学試験、資質審査も無いような、いい加減な専門学校と称する塾に、1年若しくは半年程通い、卒業証書と言う名の、紙切れをもらい、修業研鑽したつもりになって、レストランや喫茶店を開店してしまうのです。うまくいく訳がない、と思いませんか。
事実うまくいきませんでした。
質の悪いひどい店が多かったので、ひどい目に遭ったお客さんも多かったでしょう。こうして、多くの人が個人レストランに愛想づかしをしたのでした。
ひどい店が圧倒的に増えた、と言う物理的条件と、まずくて高い料理を食わされて、個人レストランはこりごりだ、と言う精神的条件が、行き過ぎた好景気の末に揃ってしまいました。後は引き金を引くだけでした。オイルショックが引き金を引いてしまったのです。結局そこらじゅうに有る喫茶レストラン学院だけが、大儲けをしたのでした。
所詮は商売、お金のためなら、
まあこんな訳で多くの人々が、ファミレスを利用するようになりました。がその結果は、。
注文してから直ぐに出来てくるのに慣れてしまいました。又何種類オーダーしても、同時に出来てくるのにも慣れました。殆ど完成品を温めるだけのことですから、当たり前の事なのですが。要するにせっかちになってしまったのです。子供が騒いでも、店員が注意しなくなりました。その前に本当は親が叱るべきなのですが。時々私も行きますが、子供が運動会をしているような時も有ります。
精算の仕方も変わりました。団体で来て、個々に会計する人が随分と増えました。もっとも、最近では”個別会計お断り”等と書いてある店も増えて来ました。書かなくとも済んでいた事を、わざわざ書いて張り出さねば、解ってもらえなくなってしまったのです。
まだまだ有りますが、一言で云えば、このファミレスと言う空間の内では、恥ずかしいと言う気持ちと、我慢すると言う気持ちを、忘れてしまうのです。
羞恥心と忍耐心、有史以来、商売人はこの二つの気持ちを取り払うために、あらゆる努力をしてきたのです。見事に成功しました。
少しは良いことも有るのでは、と考えてみました。
深夜営業は個人店でも昔から有りましたが、都市部に限られ、車で旅行した時等は困った物でした。食べるだけなら、問題はなかったのですが、ちょっと一服やトイレの時、特に女性は困ったでしょう。
その場合ラーメン屋や焼き肉屋に飛び込むのですが、まさかトイレだけ借りて出てくる訳にはいきません。結局食いたくもないラーメンや焼き肉を食わされる羽目になるのでした。何故か深夜は、ラーメン屋と焼き肉屋しか見当たらなかったのです。まあ、好きな女の子と夜中にラーメン食うのも、悪い気はしませんが。問題なのはラーメン屋も焼き肉屋も見つからなかった時なのです。想像するだけでも悲惨でしょう。
ある日の深夜、楽しいデートの帰り道
郊外の家へ彼女を送って帰る途中、彼女がトイレへ行きたくなりました。
”後3-40分我慢できないの””もうだめ、お店捜して”彼は必死で辺りを見回しました。店もスタンドも有りません。周りは畑と、雑木林だけで民家などは一軒もありません。彼女が言います”車を止めて”静かに停車した車のドアが開き、彼女が、一目散に雑木林の中へ消えて行きました。数分も待ったのでしょうか、はにかみながら戻ってきた彼女を横に乗せ、何事もなく車は走り去りました。
彼はこの時”彼女は俺の女になった”そんな気持ちになったのです。。。
この問題を一挙に解決してくれたのは、正にファミレスでした。
主婦と言われる人の中にも、家事の嫌いな人もいるようです。それでも家事はしない訳にはいきません。そんな人には気軽に手軽に一家で会食出来るファミレスは、家事労働からの解放と言う意味で、福音となったのです。ただし味や雰囲気等どうでも良い人に取っては。
夜働く人に取っては、真の意味で必要な業態です。仕事の後や、休息時間に”ほっと一息”の場所を提供してくれるのですから。
ともかくこのファミレスと言う場所は、飲食の部分以外の、他の事では、間違いなく満足を与えてくれるのでした。
負けるべくして負けたニューヨークフレンチ、
小規模で、パーキングも無く、時間も掛かり、値段も高く、お客さんにも馴れ馴れしい。そんな店でも、辛うじて料理だけが自慢の間は何とかやっていたのですが、先にも書いたように、只一つ自慢になる筈の料理までが、駄目になってしまうと、個人店に来ていた人達は、チエーン店に行ってしまいました。安心して車が止められる、安くて早い、丁寧な挨拶で世話を焼かない、どっちにしても、旨くもない料理を出されるなら、気楽で安心な方が良いに決まってます。
個人店と大規模チエーン店の勝負の帰趨は、勝ったチエーン店よりも、負けた個人店の方に問題が有ったからだと考えている訳です。
新旧交代の原因は、常に古くから有る方に問題があるからなのです。私はそう思います
これまでに書いたファミレス拡張論は公の物、私の個人的体験を加えて、さらに詳しく解析してみます。
レストラン戦争を戦った、戦士の回想、
1970年、東京郊外、中央沿線某市の繁華街に個人スーパー開店。今なら少し広めのコンビニ位の規模と思えば適当でしょう。その2階にイタリアンレストランスカイブルー(仮称)オープン。隻数やく4-50、当時は何処にでもよくある街のレストランでした。
その街の駅を挟んで反対側、古くから(1955年)有る大手個人レストラン、ヨネクラ(仮称)、経営者一族、商売敵の出現を憎々しげに思えども、時は高度成長のクライマックス、景気の良さと規模の差、街に根付いた伝統の差、ETC、ゆとりを持って鷹揚に構えておりました。
コック同士も、同じ職人仲間、立食パーティを引き受けたが大皿が無いとか、会食宴会を引き受けたが、テーブルクロスや布ナプキンが無いとか、ともかく相談される度に、皿やナプキン等を貸してあげたりしたのです。
大手のヨネクラの方は、規模も大きく、宴会場も有り、人員も大勢いて、無い物は無かったのです。従って同業者同士の付き合いとは言いながら、貸したり借りたりの関係ではなく、貸す側と借りる側がいつも固定した、いわば不公平な関係で暫くは推移していたのです。が、、、、
それは市の外れにある文化系某大学の、某ゼミの忘年会に端を発しました。
例年ですとそのゼミの忘年会は、大手ヨネクラで行うのが通常の事でした。先輩から後輩へ、その又後輩へ、と受け継がれ、15年もの間、繰り返されていたのです。店も先生も、それを当然のことの様に考えていました。学生さんだけは毎年入れ替わりますが、それでも全員が変わる訳ではありませんから、恒例行事の様に、ヨネクラを利用していたのです。
店の方も、次第に慣れっこになってしまい、社会人の宴会に比べて、いくらか安い金額のパーティを、あまり有り難くも思わなくなっていました。なにしろ時は高度成長の最後のクライマックス、万博の直後でしたから。日本中が舞い上がっていた時なのです。まあ店の側、そして職人達も、”常連だし、学生だし、”しかたねーやってやるか”位の気持ちになっており、有り難いと言う気持ちは、忘れていたのです。
この年、いつもならとっくに予約の来ている、12月になっても、予約が入らないのに首をかしげた支配人が、バイトの同大生に、確認を頼んだのです。なにしろ部屋を空けて置かねばなりませんから。結果は、今年はスカイブルーで忘年会をする。と言うことが解った訳です。この時初めて小さな同業者を、商売敵として意識させられることになりました。
しかし学生さんの控え目予算の宴会は、パーになりましたが、直ぐに、近隣の某製作所小平工場の、リッチ大豪華宴会の予約が入り、悔しさなどはすっかり忘れてしまいました。なにしろ、もし恒例のゼミ宴会を引き受けていれば、この某製作所の大豪華リッチ宴会は、引き受けられなかったのです。部屋は一つしか有りませんから。
クリスマスも間近に迫った、豪華宴会の当日、キッチンで騒ぎ声がします。大皿が足りないと言っているのです。そんな筈は無いだろうとシェフの声が聞こえます。やがて見習いコックの謝る声。事情を知らない見習いコックが大皿を貸してしまっていたのです。いつものように。スカイブルーに。ついでにシャンパングラスも。
始めの内は何を貸すにしても、一々シェフにお伺いを立てていたのですが、この頃には慣れっこに成ってしまい、一々許可も取らずに借りに来るたびに、勝手に貸してしまっていたのです。
この年のゼミの幹事ブルースカイで、ヨネクラでやってた時は、頼んだ事も無い、シャンパン(スパークリングワイン)を注文したのです。この当時今と違い、シャンパンは、物凄く高かったのです。結婚式でも出来るような店、ヨネクラの様な店しか、シャンパングラスなどは用意していませんでした。
おかげで製作所の方々はワイングラスでシャンパン(スパークリングワイン)を飲まされる事になりました。上下関係や体裁を重んじた、当時のサラリーマン社会、幹事からクレームが出たことは言うまでも有りません。これに懲りて、付き合いと言う名の一方的な貸し借り関係は終わったのですが、さらなる大問題が持ち上がりましたし、この事が外食産業の勃興の遠因になったのでは、と思うような、重要な事件が数度に渡って、この二店のレストランの間に持ち上がったのです。それは、、、、
後悔先に立たず、個人店のオウンゴール、
大皿、シャンパングラス、事件に懲りて、物を貸さなくなったのは良いのですが、さらにシェフが、根に持ってしまったのです。第三者はともかく、当事者として考えれば、理解出来なくも無いのですが、常連客は奪われるは、おまけに皿やグラスまで使われるは、おかげで上客には怒られるは、日頃、シェフに頭の上がらない経営者からは、ここぞとばかり責められるは、全く良いところのない、ピエロ、漫画状態なのです。
常連客がよそへ行ってしまったのは、身から出た錆なのですが。ともかく大変腹を立て、根に持ってしまったのです。それからは嫌がらせが始まりました。人手不足の時代、職人の出来る嫌がらせと言えば、就職に関してのことなのです。引き抜きです。小さなレストランスカイブルーのコック、やっと働いてもらっている比較的腕の良いコックを、よその店へ紹介してしまうのです。現在よりも高い給料、待遇で。
大手ヨネクラのシェフともなれば、調理司会でも幅が利き、人事権も大きくなるのです。若いコック、将来有望なコックを、何処の店から何処の店へ移すか、シェフとして部下を何人か付けて移すか、それとも、単独で移すか、希望どうりの給料を経営者に払わせるか、それとも安い給料で我慢させるか、通勤が大変な場合は、寮を手当させるか否か、これらの権限です。そして好条件にしてやった若いコック達を、自分の所属する調理司会に入会させます。これでこの調理司会は会員が一人増えた事になります。
紹介先の店にはその会の賛助会員になってもらい、会費を取るのです。紹介したコックの給料の1-1,5ヶ月分の金額が年会費として、また入会金として、同じ金額を徴収します。そしてさらに紹介手数料としてやはり同額を。つまりそのコックの3ー4.5ヶ月分の金額が、所属調理司会に入ることになるのです。
さらに引き抜いた店に、もっと若い新人コックを紹介します。引き抜いたコックと同じ給料を約束させ、同じように賛助会員になってもらい、入会金と年会費と手数料を徴収するのです。それでなくとも高度成長で人手不足の極限状態が、何処の店でも続いているのです。引き抜かれた店は、例へどんなヘボコックを紹介されたとて、断れません。しぶしぶ新人ヘボコックに、前のコックと同じ給料を支払い、入りたくもない調理司会に、入会金を支払い、手数料、年会費を納めさせられることになるのです。
さらに半年も経つと又別の店に移動させます。こうして一人のコックを、移動させることにより、2軒の店から、お金が取れ、会の増員が計れ、自身も会の中で、地位、発言力が大きくなり、業界の中で、大物となっていくのでした。
こうした会は、数多く有りましたから、会どうしの縄張り意識も強く、他の会のコックがいる店には、引き抜きはしますが、紹介はしません。引き抜かれた店は、その会に入会するか、元々の会に補充を頼むか、店をやめるか、の選択を迫られるのです。
会に入っていない店は入会を迫られ、小さな会に入っている店は、大きな会への鞍替えを、する事になります。小さな会では、何人も若いコックを紹介出来ませんから。
何事が無くとも、半年くらい経つと、移動させます。サラリーマンでもこんなにしょっちゅう転勤は無いでしょう。。普通は、他の店へシェフとして招かれたり、3番が2番になったり、新規開店だったり。これなら、コック自身に取っても望ましい事でしょう。目出度し目出度しなのですが、そのまま水平移動するのです。
どうしてと言えば、長期間人を動かさないと、会からクレームが来るのです。会の業務に熱心でない、ひいてはコックの社会的地位の向上に、努力するつもりが無いのでは、と言われるのです。コックの出入りが物凄く頻繁になり、その度に紹介手数料を支払わされるのです。既に賛助会員になっているわけですから、給料の1ヶ月分程で済むのですが、それにしても、5-6人もコックのいる店はたまりません。手数料だの会費だの、で正に値(音)を上げさせられるわけになります。
激しい人員移動は個性をなくす、
しかし本当に重要なのはこうした経費の問題では無い、と考えています。年がら年中コックが入れ替わることにより、個人店としての個性が無くなってしまうのです。せっかくお客様に親しまれた味や、人柄が、雰囲気が、ころころと変わってしまい、捕らえ所の無い、没個性の店になってしまうのです。
飲食店と言うのは、否全ての商売に言えるでしょうが、良いに付け悪いに付け、お客様と言うのは、常連と言うのは、個性を求めてやって来るのです。その個性が無くなってしまえば、最早その店で無くとも良いのです。通りすがりの便利な店、へ集中するに決まっています。常連客とのコミュニケーションなどは、年がら年中コックの変わるような店では、取りようもないのです。だいいち常連さんは出来ないでしょう。
コックを置いても必ず引っこ抜かれてしまう、郷里から若い人を呼んで、手塩に掛けて調理技術を教え、やっと一人前になった頃、引っこ抜かれるのです。後釜には、せいぜい半年くらいで、他所へ行ってしまうコックがはめられるのです。そして後から来たコックが自分流にメニューや価格、料理のボリュームまで決めてしまうのです。
前のコックが仕込みをした、デミグラスソースやベシャメルソース、フォン(だし)ドレッシングETCETC等は、”こんな物使えるか”とばかり全て捨ててしまいます。
ヨーロッパ料理はこの、だしやソースにコストの相当部分を掛けていますから、(概ね20%)店としてはたまった物ではないのです。半年に一回位、冷蔵庫を空にすることになります。
こうして個性が無くなり、個人店とは言いながら、どの店も似たり寄ったりのメニューで、味も値段も似たり寄ったり、お客にしてみれば何処でも同じじゃないか、と言う気持ちにさせられてしまうのでした。店の方もこれ程にしてまで、コックを確保しなければ、たちまち営業出来なくなってしまう程、好景気の果ての人手不足、レストランブームの果ての調理司会の際限の無い要求に困り果てていたのです。
必要は発明の母、
こんな状態から脱却するには、職人を置かなければ良い、と考える経営者が出現しても不思議では無いでしょう。それがスカイブルーだったのです。地場の大手レストランのシェフの横暴に困り果て、苦肉の策が、職人を置かない店のチエーン化、工業製品として、マニュアルを作り、工場で生産し、完成品を配達します。お店ではそれを温めて、提供するのです。
よく考えれば、ヨーロッパの料理には、その場で作らずとも、どこかで作って、温めれば何とか行ける物や、焼くだけ、揚げるだけで結構食べられる物も多いのです。そう言った物だけでメニューを構成しても何とかなるのです。
職人に言わせれば、同じ温めるにしても、素人と、職人とでは違うのだと言います。厳密にはそのとおりなのです。煮詰まったのを上手に薄めたり、時間が経つと出てくる、あく、をすくったり、これで随分味が変わるのです。がしかし、この時代若手の新人コックで、こんな事を知っているのは殆どいなかったのでした。
極限まで行き着いた人手不足の波は、職人のレベルを極端に引き下げました。料理に興味を持ち、安い小遣い程度の給料で、苦しい修業に耐える強固な意志の持ち主、だけが赴ける筈の、料理人の世界へ、単に給料が良い、入社試験を受けないで済む、と言った動機だけで志望してくる若者達、まで受け入れざるを得ない状態になっていたのです。
簡単に言えば、コック服は着ていても、中身の人間は只の素人。そんなまがい物コックが大手を振って、個人レストランの命運を決めていたのでした。
それ程新規開店のレストランが多かったのです。こうして郊外の小さな個人レストラン、スカイブルーは地場の大手レストラン、ヨネクラの横暴に耐えかねて、チエーン店に生まれ変わる道を選んだのでした。
まずアメリカに行き、チエーン店レストランを隅々まで見学したのです。料理のノウハウ、接客のノウハウ、配送のノウハウ、保存の、仕入れの、一番大切な出店のノウハウ等々。実によく学んだのでした。そして始まりつつあるモーターリゼイションの波に乗り、最新のファッショナブルなレストランとして、庶民の羨望を集めながら、次々と出店が始まったのです。手作りではない、工場生産の料理ですから、店の数は多いほど良いことになるわけです。
この時から2年程の間、高度成長が未だ続いている間が、ファミリーチエーンレストランと、個人ニューヨークフレンチレストランの共存共栄の期間になるのです。
ファミレスは右肩上がり、個人レストランは右肩下がり、交差点にオイルショックが待ちかまえていたのでした。
中央沿線の郊外某市、地場型大手レストラン、ニューヨークフレンチヨネクラは、子猫のような小さな新進イタリアンレストラン、スカイブルーの、尻尾を踏んづけてしまったのでした。まさかファミレスと言う虎になるとは露知らず。