忙しさはロックに乗せて
ウエスタン時代の歌のテンポは、騎馬の速度と、馬車の速度が基本になっているのでしょう。時速5㎞から30㎞位までのスピードです。後期には鉄道が出来て、スピードアップされますが、せいぜい50㎞ー60㎞位までの早さです。現在ウエスタン音楽を聴くと、妙にのんびり感じられるのは、この為でしょう。さらにウエスタン時代最後の頃には、自動車が出現しますが、その速度は汽車とほぼ同じ、もしくは少し遅い位の40-50㎞なのです。しかし馬の代わりの自動車ですから、日常の短距離の移動速度は確実に、かなりのスピードアップに成ったのです。
従ってメロディーはそのままでも、アップテンポになり、別ジャンルのヒリビリーへ、さらに自動車も進歩して、汽車よりも速くなると、ヒリビリーからロック&ロールへと進化するのです。
未だ自動車の無い時代を描いたウエスタン映画の中から、有名なヒット曲を捜してみます。 黄色いリボン(同名)帰らざる河(同名)遙かなる山の呼び声(シェーン)ボタンとリボン(底抜け二丁拳銃)グリーンリーブスオブサマー(アラモ)OK牧場の決闘(同名)愛しのクレメンタイン(荒野の決闘)騎兵隊マーチ(騎兵隊)ライフルと愛馬、リオブラボー、殺しやのテーマ、以上3曲(リオブラボー)誇り高き男(同名)ジャニーギター(大砂塵)ETCETC、いずれも馬の速度より早い曲は有りません。
一方ロックに対して、その対照的音楽のジャズはと言いますと、これもやはりヨーロッパ音楽の集大成ですから、やはり馬の速度になるのですが、ロックとの大きな違いは、ウエスタン音楽の様な、アメリカ独自の音楽に変化しないで、いきなりジャズに成ったのです。ロックの原型はウエスタンで音楽なのですが、ジャズの原型はストレートにヨーロッパ音楽なのです。
室内楽で有り、イギリスやドイツフランスETCそしてイタリアの民謡なのです。オペレッタや、フランスのレビューなども多大の影響を与えているのでしょう。
そしてジャズは、自動車がかなりポピュラーになってから、いわゆるモーターリゼイションの始まりと共に発生しています。都会の交通シーンが馬より、自動車の方が多くなった頃のことです。従って馬の速度とは言いながら、結構アップテンポになるのです。まあ馬の速駆け位のスピードになるわけです。1910年代には相当、早く強烈に、感じられた事でしょう。正に騒々しい、気違いじみた、ジャジーな音楽だったのです。
もっともロックは自動車も相当進化してから登場していますから、そのリズム、テンポは、ジャズに比べてさらに相当、早く強く、なっているのです。
スゥイング大流行の兆し、
ジャズは第一次大戦末期にジャンルを確定し順調に進歩してきたのですが、世界恐慌を経て、第二次大戦の焦臭い匂いが漂い始めた、スペイン動乱の頃から新たな動きを見せるようになります。
前の章で説明した様に初期からのスタンダードと、軍隊用ダンスミュージックのスゥイング、さらに黒人のブルースの影響、を受けたジャズの三本柱に分かれます。
1929年の世界金融恐慌から1939年のチャーリーパーカーまでの10年間はモダンジャズの前身と言う意味で、特別にジャンル訳はされていませんでした。しかし前身ダンモは文字どおり当時の最新の音楽と言うことに成ります。スゥイングキッズと呼ばれた有名なドイツのジャズファン達も愛好していました。彼等は正に文字通り、隠れ家でジャズを楽しんだのです。ナチの目から逃れて。
馬に乗る事の無かった黒人達の影響ですから、当然マッタリとした、たまり場ソング的になるのです。今風に言えば、癒し系、とでも言うのでしょう。戦争、好景気、大好況(バブル的好況)恐慌、戦争、と言った時代の流れを、僅か20年間弱の間に、体験させられる羽目になった、アメリカ国民は、心身共に疲れ切っていました。
いや、アメリカばかりでなく、世界中の人々が、、、、、結果として、忙しく働き回る、都会の大多数のアメリカ庶民は、明るいお祭り的パーティーソングジャズよりも、疲れた目にも優しい、薄明かりの中で、ゆったり、まったりと体と心を癒してくれる、モダンなジャズを選んだのでした。
癒し系は動乱の序曲
疲れ切った庶民達、
言い方を変えれば、人々が明日への希望を無くし、疲れ切ってしまうほど、短い時間の間に、天国から地獄へ突き落とされた結果でした。従って本当に景気が回復し、しかも悪くなる可能性が見えないような時代、に成った時、初期モダンなジャズを始め、他の心を癒す系列の音楽は、一部通人のための音楽として、流行の流れから外れ、楽器店やCD、レコード店の、ほんの片隅に追いやられるのです。しかし歴史を紐解けば、癒し系音楽の流行した後は、大抵、動乱か戦争に成っているのです。
売れるのは娘だけ
日本でも世界恐慌で大打撃を受けた上、天候異変で農産物が大不況と言う事態になったのです。恐慌の時はどういうわけか天候異変と重なるのです。被害の大きかった東北の農家では、小作料が払えず、田畑を取りあげられる農民が続出しました。娘が居れば売り飛ばす事になったのです。東京や大阪から、女衒(ぜげん)と呼ばれる商人が小作料の払えなくなった農家に行き、娘を買うのです。東北のそこら中で娘を売り出しますから、値下がりしてしまい、安く買いたたかれてしまうのです。小作料を払ったら一銭も残らないような金額です。これではたまらないので、とうとう村役場が仲介に入ることになりました。役場の玄関に張り紙が出ます。
文面は”娘身売りの節は当役場まで申し出下さい”今のご時世こんな事想像できますか。昭和初期の事実です。
この不幸な娘達の兄は、徴兵で入営している者が非常に多かったのです。年頃を考えればお解りでしょう。兄は帝国陸軍の兵士として国防に専念しているとき、その妹が小作料を払うために売られて往くのです。兵士、青年将校達の憤りが理解できる方も多いと思います。
これが226事件の土台なのです。
売られた娘達の涙、恨み、の場所、そこには大概ジャズがBGMに流れていたのです。陸軍や警察がジャズを嫌いな大きな理由の一つです。226の半年後、回りだした巨大な流れは、1937年8月9日、上海事変となって完全に舞台を戦時に変えてしまいました。
流れを変えた226
日本軍人二名が、中国軍施設に無許可で立ち入ろうとして、殺されたのが直接の原因でした。しかしそれはあくまでも口実、既に上海は、国民党軍と日本の海軍陸戦隊が、一ヶ月もにらみ合っていたのです。国民党軍20万、日本軍3500、始まってしまえば最早終わりです。
当時上海には、外国人居留地があちこちにあり、(祖界)そこは治外法権で、中国政府も手が出せないはずでした。しかし上海は大学生を中心に、排日、抗日、を叫び、一触即発、の状態です。
1937年7月に濾溝橋事件で、日中戦争が本格化するや、当時中国随一の大都会、上海では、たちまち抗日運動が激化したのです。1931年の満州事変以来、抗日運動は起きていたのですが、ここで一挙に激化しました。日本人達は街に出て、口を利けなくなってしまいました。喋ると日本人だとばれてしまうからです。石を投げられたり、殴られたり、襲われたり、おっかなくて街に出られなくなりました。
こうして居留民保護の名目のもと、海軍の陸戦隊が上陸したのです。しかしこの数では、ひとたまりもありません。むしろ半端な数の軍隊を送り込んだ為に、かえって、学生達を刺激してしまい、ますます抗日、排日の嵐は、強くなってしまいました。
こうした最中に、陸戦隊の大山大尉と斉藤1等兵が中国側の支配地で殺されてしまいます。
これで戦争が始まりました。3500人では勝てっこありませんから、陸軍が救援に行くことになります。陸軍三個師団が、増援部隊になりました。それでも足らずさらに三個師団、計11万程になります。そしてこの追加三個師団、第10軍は司令官柳川中将の名を取り、柳川兵団と呼ばれるようになります。この柳川兵団は日本内地からの、第十八師団と北支駐留の第六師団、第五師団の一部、それにやはり北支の第十六師団で編成されました。つまり中国北部から、引っこ抜いて上海に転用したことになるのです。がしかし実際は違いました。
兵士は将棋の駒
実際はこうです。3年の間、北支の極寒の地に、駐留しやっと内地に帰ることになった部隊、九州第六師団です。兵士達は長い孤独な生活、辛い兵役から、やっと解放されるのです。赤紙で徴兵された兵士達は、念願の退役です。家庭や職場に、帰れる筈でした。長い行軍の末、旅順港から輸送船に乗って、懐かしい故郷へ向かったのです。3日ほど船にゆられて、博多の港が見えるところまで来ました。もう港には、気の早い出迎えの家族や恋人、同僚が待っています。兵士達は船から乗り出すように甲板の上で、おりる用意をしています。
そこへ、師団長宛に電報が届きました。参謀本部からです。内容は”そのまま上海へ向かうことを命ず、第十軍、柳川平助中将の指揮下に入り、以後その命に服すべし”。上海事変の勃発でした。
帰国を夢見ていた、兵士達三万名の願いは無惨にもうち砕かれたのです。始めは悲しみに暮れました。やがて杭州湾に上陸し大激戦になり、仲間が大勢死ぬと、悲しみは怒りに変わりました。上海を占領し、逃げる中国軍を追って南京に来ました。
1937年12月南京城は陥落します。逃げ遅れた中国軍は降伏せずに、軍服を脱ぎ捨て、便衣兵に(ゲリラ)になって小競り合いを繰り返します。市民と兵士の区別が付きません。もっともそれまでにも、散々捕虜や市民を殺していますから、中国兵は捕虜にはならなかったのです。日本に言わせれば、捕虜に成らずに軍服を脱いでしまい民間人に化ける訳ですから、国際法上はスパイと思われても仕方ないだろう、と言うのが日本の言い分なのです。当時国際法上は、スパイは即刻死刑、でもよかったのです。当時の軍人、独断専行を良しとした、現地部隊の判断でした。
占領から僅か4日後に入場式を行うことになりました。上海派遣の各司令官の中には皇族、朝香の宮がいたのです。第一線部隊からは、まだゲリラがいて危ないから、もう少し落ち着いてから、入城式をしてくれと願い出ますが、総司令官の松井石根大将は、どうしても四日後にやると言うのです。
”ゲリラも盛んで、入城式の最中に皇族司令官に発砲騒ぎでも起こされては、大変な不名誉である”第一線の指揮官達はそんな風に考えたのです。取り合えず解らないのは多分スパイか便衣(ゲリラ)だろうから、殺してしまえ、と言うことに、第一線指揮官同士の暗黙の了解に成りました。
軍司令官や、東京の参謀本部は全く知りませんでした。しかし上海から南京までの途中、スパイかゲリラだろうと理由を付けては、散々殺し回っているわけで、日本の報道班員なども、蛮行を目撃して、止めようとしても、一緒に殺してしまいます。死んでしまえば、中国人も日本人も見分けは付きません。朝日や毎日の記者が大勢戦死、行方不明になりましたが、半分以上はこの犠牲だと、言われています。
怒り狂った兵士や下級将校達は、手当たり次第に殺戮、強姦を始めました。俺達が内地に帰れないのは、お前達がいるからだ、とでも言うように。世に言う南京虐殺の顛末です。中国側の発表と、数の上では大きな隔たりが有るとは思いますが。上級指揮官は下級指揮官や、兵士を押さえられなかったのです。
たまたま事変が勃発したとき、上海の一番近くにいた、と言う理由だけで、兵士達の望郷の念や、三年に渡る、苦労など微塵も理解せず、将棋や戦争ゲームのように、人間を好き勝手に動かしたり殺したりする、エリート参謀達の人間性の欠如が、この惨事、歴史に残る汚点を残してしまったのです。
今、癒し系ミュージックはどうも全盛のようです。この次が動乱や戦争でないことを、祈るばかりです。
イメージのアメリカ、世界に蔓延る。
第二次世界大戦の結果、世界的にアメリカブームが巻き起こり、ウエスタン文化が世界中で、持てはやされ、音楽に、映画に、ファッションに、ETCに大影響を与えたのです。
ビクターヤング、デミトリーティムオキン、エルマーバーンスタイン、ミッチミラー、ヘンリーマンシーニ、ETCETCが大活躍をしました。歌と映画がセットで世界中に輸出されたのです。
こうして世界中がウエスタン全盛に成るのですが、肝心のアメリカは、特に都市部では実際はジャズの全盛時代であり、ビングクロスビー、フランクシナトラ、ディーンマーティン、ペリーコモ、ドリスデイ、パティペイジ、ダイナショア、ETCETC達が華やかにジャズを演じていたのです。面白いのは都会でジャズを歌い、人気絶頂だったシナトラやディーンマーティン、ペギーリー等は、合間にウエスタン映画の主題歌等を歌い、これが又大ヒットになります。日本などでは一時彼等は、ウエスタンのスターだと思っていた人もいるほどなのです。
この時代の自動車は、ほんの一部を除いて、100㎞位が最高速度でした。旅客機もまだ、プロペラで飛んでいました。日常生活は、正にジャズのテンポでした。
高速道路を80-120㎞位で走りシナトラやドリスデイを聞くとなんとも快く聞こえると、思います。もし130㎞以上の高速で突っ走れば、ビートルズの方が心地よく聞こえるのは私だけでは無いと思います。もっともあくまでも私と同じ程度の、決して高級車とは言えない、1800-2500ccクラスの大衆セダンやワゴンに乗った場合の事ですが。
この頃流行したジャズを少し紹介しましょう。国境の南、茶色の小瓶、ルート66、 シカゴ、ペイパームーン、恋人よ我に帰れ、君住む街,ETCETC,いずれも当時の騒音の多い自動車の、巡航速度60-80㎞位のテンポです。それでも初期の自動車よりは大分速くなりました。さらに時代が近くなると自動車は更に速くなり、飛行機もジェットの時代になります。高速道路も整備され、巡航速度は120㎞位までに成りました。最早ジャズのテンポでは間に合わず、ロック&ロールも、より強烈なビート、テンポの、いわゆるロックへと進化して行くのです。
そして現在、既に120㎞超の自動車は当たり前の事と成りました。ジェットも初期の物に比べて倍以上の速度に成りました。音速の2倍以上の飛行機も活躍しています。こうなってくると人間の想像力も追いつかなくなり、想像や空想まで機械やコンピューターに任せてしまうのかもしれません。
現在、ハード、超ハードと言われている、大抵の曲もそのころに成れば、何とものんびり聞こえる事でしょう。
プレスリーやビートルズでさえも、今になれば、ムーディ&ソフト、のイメージに成ってしまったように。