戦後のレストラン
戦前のレストランは完全なフランス料理の店で、まさにステイタスシンボルでした。 別の言い方をすれば、そんな店しかレストランとは呼ばなかったのです。リネンやコットンの白いテーブルクロスやナフキン、 恭しいギャルソン達、当時はボーイさんと呼ぶ人が多く、丁寧に呼ぶときだけウエイターさんと呼ばれていました。女性のほうは今と同じウエイトレスさんか、又はおねーさんです。そのままです。
結局のところ物凄く高く、日常の食事の延長で行く人は、まずいなかったようです。皆その一時をヨーロッパ人になったつもりで楽しんでいたのです。しかし戦争になってしまいました。贅沢は敵だと言う当局のお達しにより、レストランは無くなりました。学徒動員の始まったs18年秋の事です。、、、
そして敗戦、多くのアメリカ兵が日本に来ました。レストラン時代の幕開けです。ただしこれ以降は戦前の本場パリスタイルから、アメリカンスタイルや、ニューヨークスタイルに変わったのです。懐に$を抱えた米兵目当てに、、、。
1958年頃まで、米兵は庶民の味方、
戦後になって$と米兵を目当てにした日本のレストランは、やっと庶民にも手の届くものになりました。
戦前はフランス風に魚介料理等もかなり有り、ワインは必ずオーダーされていたのですが、米兵がお客になってからはワインはあまり出なくなりました。ニューヨークやシカゴ等の大都会の出身者はワインにも馴染みが有ったのですが、殆どの兵士は都会とは縁のない、辺鄙な田舎の出身で、食事中にワインを飲む習慣など無かったのです。
食事中に飲むのはもっぱらビールかコーラでした。それでも食事中にドリンクを注文するのは少数派で、大半は、水を飲んで食べていました。今レストランへ入ると大抵の店で、夏であろうと冬であろうと、座った途端に、水が出てくるのはこの時の名残なのです。
食うや食わずの当時の日本人から見れば、途轍もない金持ちに見えた米兵達も、国では質素な人達だったのでしょう。飲む事と食べる事を一緒にする、ディナーなど、縁の無い人達だったのでしょう。宗教上の理由の人もいたと思いますが、、。
ともかく誰彼かまわず水(お冷や)を出すと言う習慣が残りました。地方の朴訥な人達ですから、食事中は質素に水で済ましても、決して飲まない訳では有りません。
飲むときはもっぱら飲むだけに徹するのです。つまみなど殆どいりません。
その結果スタンドバー(ウイスキーだけの立ち飲みショットバー)の林立と言うことになりました。
ニューヨークフレンチ、とアメリカンフレンチの二つのジャンル、
レストランの料理はグリルやソテー、フライと言った単純な物が主役になり、煮物や蒸し物は少なくなりました。特に蒸し物は極端に減りました。つまりメニューから魚料理が消えてしまう状態になったのです。何しろ将校より兵隊の方が圧倒的に多いですから。この形態をアメリカンスタイルと言うようになり、やがて現在のファミリーレストラン(ファミレス)へと進化するのです。
一方将校達の集まる店は、こんな事は有りませんでした。彼らは高等教育を受けた教養人の集団(のはず)ですから食事中にワインも飲めば、繊細な魚料理も欲します。
このような訳で兵隊が来るか、将校が来るかで、大衆店と高級店の区別が出来てきたのです。もっともこの高級店の中には、長い間休業していた戦前からの有名店が殆ど含まれるのです。そしてこちらの高級店の方はニューヨークスタイル、もしくは単にレストランと言われ、1980年代中頃までは有名ホテルのレストランも、高名な伝統を誇る街のレストランも、全てこの形態でした。
ニューヨークフレンチと言われるジャンルのことです。今ではニューヨークスタイルより、本場フランスの形態をそのまま取り入れた店が主流になっています。がこれにはある転機が有ったのです。これはまた後に述べてみようと思います。
ともかく世界的には第一次世界大戦末期の、1917年以前のレストランは、全て純粋フレンチスタイルでした。日本では第二次大戦が終了し、米軍が駐留し始めた1945年末期までは、やはり純粋フレンチスタイルでした。ただし戦時中は休業させられていましたが。
この時までは、レストランは、正に上流階級のサロン的役割を果たし、一般庶民には縁の無い場所でした。
多くの庶民がお金持ちに成る、などと言う事は、革命か戦争でも起きない限り不可能でした。
こうして完全に上流階級の社交場であったレストランだったのですが、そんな場所に変化が起きたのです。多くの庶民がお金持ちになりました。正に戦争のせいでした。第一次世界大戦と名付けられた戦争のせいでした。それも戦争が始まったと言うせいではなく、戦争が終わりそうだ、と言うせいでした。
平和の予想は好景気を、
1917-8年頃にさかのぼります、
戦争終結後の復興を期待して、あらゆる物品の大量生産が始まりました。この時代をアメリカの産業革命の最終段階と、考えているのです。
今度は同盟国の英仏ばかりでなく、敵国のドイツ、オーストリアにまで、売り込むのです。もっとも未だ戦争は続いているのですが、あくまで終結を予想してのことです。自動車、建築資材、鍋釜、衣料、スリッパシャツパンツ、エトセトラ。アメリカ中部や東部の工場地帯は沸き上がりました。それまでも戦争景気で戦場になったヨーロッパを尻目に一人勝ちしていたのですが、さらに凄い景気になったのです。
人々は稼いだ$を懐に、夜の巷へ繰り出したのです。マフィア達も頻繁にレストランに出入りするようになりました。そして彼等の要求がニューヨークフレンチを生み出すのです。
1929年、物が余れば売れなくなる、
戦地の復興が一段落して、不足していた物が一渡り行き渡った時、この好況が終わりを告げたのです。世界恐慌です。何を作っても売れない、大恐慌の時代を迎え、その解決策が第二次大戦、でした。原爆を落とされ日本はアメリカに占領されたのです。
戦後の話
日本人、アメリカにかぶれる、
米兵が持ち込んで定着した代表的な物をあげてみます。今ではなんの変哲もない物ばかりですが、何れも当時の日本人には目新しく、憧れの物だったのです。
コーラ、コンビーフ、チューインガム、ポテトチップ、ポップコーン、等々、です。 中でも一口めには薬臭くて吐き出した人の多かった、コーラのインパクトと、洋モクと言われた、アメリカ煙草のステータス性は大変なものでした。スナックフードとしてフライドチキン、ホットドッグ、ハンバーガー、が登場しました。
ファーストフード店はまだありませんから、全部レストランで食べたのです。ですからこの時代のハンバーガー等は、えらくお洒落で姿も値段も立派だったのです。無論味の方も、、、、。名前もハンバーガーとは呼ばず、ハンバーグサンドと呼んでいました。ホットドッグは同じ呼び方ですが、フライドチキンは大抵、籠に入って供されるところから、チキンバスケットと言っていたのです。
記憶では母はチキンバスケットをオーダーしたのに、出てきたチキンは皿に乗っていて、母がふてくされる事も有りました。母いわく”これなら家でも食べられる”と言って怒っていました。ともかくこれらのスナックフードは、格好良いヤンキー(アメリカ人)のカジュアルフーズとして、都会人の心をガッチリと捕らえたのでした。
この時代にドッグやサンドを食べつけた人の中には、ファーストフード店のハンバーガー等を受け付けない人が大勢います。まずくて食えないと言います。値段は今の方が、当時よりはるかに安いのですが、とても口には入らないと言うのです。同感です。
落とし物だってアメリカン、
良い物ばかりでも無いのです。小汚い飲食店や、希に一流と言われているレストラン等でも、ちょろちょろと動き回って目障りで気持ちの悪い小さなゴキブリ、こんな物も、彼等のお土産でした。それまでの日本のゴキブリは、大型で、スマートな雌のカブトムシの様な生き物で、繁殖力もそれ程強く無く、かつ家の中よりは、地べた、アウトドアを好んでいたのです。したがって人間とのトラブルも少なく、どちらかと言えば、共存共栄していました。
しかし、ヤンキーが連れてきたゴキは一見小ぶりで、色も薄く目立たず物静かに見えるのですが、これがくせ者でした。物凄い繁殖力でおまけにインドア専門、飲食店のキッチン等は、格好の住みかとなるのです。僅かに住み着いていた、国産ゴキブリは、たちまち居所を失い逃げ出したのです。人間の方は、四年弱の間戦って破れましたが、ごきぶりの方は、半年程で勝負が付いたのでした。何であろうとアメリカには勝てませんでした。
いくら流行りでも無理なものは無理
ウイスキーもブームになり、椅子の無いスタンドバーと言うカウンターだけのショットバーがあちこちにできました。が、このブームは短期間で終わりました。西部劇の影響でこのスタイルが流行ったのですが、アメリカ人には出来ても日本人には出来なかったのです。長時間立っているのが、、、、、。
そんなわけでウエスタン風のバーカウンターの前に椅子がつくことになりました。本来アメリカ人が立って飲むべきところに、椅子をつけたのですから、かなり高くなります。酔って落っこち怪我をする日本人が大勢いました。なんと言ってもよじ登っていたのですから、、、、。
そこで飲むのはウイスキーと相場が決まっていました。スコッチなどと言う高級酒は有りませんから、国産大手メーカーの物を飲ませていたのです。トリスバー、とかニッカバー、などと言っていました。たまにオーシャンバーなどと言うのも有りました。飲み方もストレートかソーダ割り(ハイボール)のどちらか。つまみはバターピーナッツか柿の種、塩豆、位のものでした。チーズが出るのは少し後、水割りが出現するのはずっと後のことなのです。
少しはましになった生活、
日本も独立し、世の中大分落ち着いてきたのです。それまでは、ファッションの流行と言うのは、比較的お金持ちの間での出来事でした。シャネルがどうの、サンローランがどうの、と映画や雑誌をにぎわせ、着飾ったハリウッドスターや、ジャズシンガーのゴシップと共に、話題は振りまいていましたが、それを、庶民が手に入れる事はまずありませんでした。しかしs30年代に入るとその、ファッションには縁の無かった筈の庶民の間に流行が始まったのです、、、、、。
レストランもバーも客の大半を日本人が占めるようになりました。既に米兵は20万人位に減っていたのです。立川や横須賀と言った基地の街以外では日本人に目を向けざるを得ない状態になっていたのです。
流行は豊かになった証拠です。
そんな中、戦後初の大流行が始まりました。火を付けたのは映画でした。ローマの休日、麗しのサブリナ、の大ヒットで、目黒も渋谷もオードリーだらけになったのです。ヘアバンド(カチューシャ)サブリナパンツ、モヘアっぽいセーターなどが飛ぶように売れました。それまで行列と言えば米の配給くらいだったのが、デパートのバーゲンに行列ができたり、力道山のプロレスで、街頭テレビが黒山になったり、とにもかくにも庶民生活に、僅かながらゆとりを感ずるようになってきたのでした。
ジャズを見限る庶民
元々ジャズは特有の掛け合いで構成され、いわゆる歌の伴奏のように、脇役に徹するミュージシャンが舞台に上がることは有りません。CDでも聞くと解ると思いますが、ヴォーカルの最中は殆どの楽器のメロディーは聞こえず、切れ目近くから楽器がアッピールを始め、次にヴォーカルの始まる直前まで華々しく自己主張するのです。そしてその自己主張に答えるようにまたヴォーカルが始まると言う具合です。ヴォーカルの最中に楽器が入る場合は、その楽器とのセッションになります。決して伴奏にはなりません。
ヴォーカルと楽器と言うおおざっぱな区別だけでなく、各楽器間も皆こうですから、ペットはペット、ギターはギター、と言った具合に強烈に自己主張するのです。あたかも問題を投げかけ、それに答える、ように聞こえます。ジャズ特有の掛け合いシーンです。大まかなコードと小節だけが決められていて他のことは決めてないのです。リズムやメロディー、それにテンポは、細かくは決まっていないのです。
ブルースの要素をふんだんに取り入れてしまったジャズは、即興演奏を信条とし、譜面を準備するのを潔いこととしなかったのです。
こう言えば聞こえは良いですが、本当のところは、ジャズを始めた人達の多くが、譜面を読めませんでした。ですから 譜面以外の約束事を作ったのです。この譜面を読めないと言う一言で、ジャズが庶民の物だったと言うことが解るでしょう。
ジャズを乗っ取るオタク達
1939年にサックスのチャーリーパーカーが、ジャズを斬新に演奏をしたため、他の奏者達もこぞってこの路線を行くようになりました。
モダンジャズと呼ばれるようになりました。それまでもジャズメン達は常に新しいものを求めていたのですが、ジャズ全体が、がらりと変わりました。楽器に負けじと、ヴォーカルも変わりました。全く原曲が解らなくなったり、雄叫びや悲鳴が入ったり、すっかり変わってしまいました。素人は付いていけなくなったのです。最早庶民の物では無くなりました。その為、もっと分かり易い楽しい音楽が求められたのです。正に大衆、普通(ポピュラー)です。
元々ジャズとポピュラーの区別は有りません。月光値千金、私の青空、ナイト&デイ、等は歴としたスタンダードナンバーですが、戦前にはジャズの名曲として全世界に知れ渡っていました。無論日本でも大ヒットし、日本語バージョンまであるのです。ジャズを志すミュージシャンたちは、競ってこれらを演奏し、且つ踊ったのでした。今これらの曲はポピュラー、として、売られています。
モダンジャズがジャズの主流になってしまったので、戦後、ジャズに対して極端なイメージを抱いた若手評論家等が、スタンダードに近いもの、解りやすい物は全てポピュラーにしてしまったのでしょう。逆に言えば原曲を分かり難くした(ミュージシャン達は、より前衛的にしたと言いますが)曲がジャズに分類されたのです。ですから今となってはジャズ固有の曲は無いとも言えるのです。あくまで前衛的演奏方法のことなのです。
ブルースにはメロディーは無いのです。
なぜかと言えば、奴隷にされた黒人達の故郷、アフリカの彼等の故郷には、文字が無かったのです。従って彼等の音楽、ブルースにはリズムは有っても、メロディーは有りません。言い方を変えましょう。
文字が無いため、譜面が作れないのです。従ってリズムは伝承できても、メロディーは伝承できなかったのです。ですから初期のデキシーランドジャズや、セントルイスのブルース、ニューオルリンズのジャズ、これらは全て黒人達の強い影響を受けているため、大抵の人は皆、黒人の音楽だと思っています。
しかしリズムはあくまで黒人のリズムですが、メロディーは白人達のカントリーウエスタン、だったり讃美歌だったり、アイルランドやグルジアの民謡だったり、あるいはドボルザークだったり、ブラームスだったり、、、、つまり白人のメロディーなのです。
白人達の作ったスタンダードのメロディーにブルースのリズムを付けたのです。言い方を変えましょう。白人のメロディーでも黒人が歌うと、自然にブルースになってしまうのです。
文字がないと奴隷にされる
スペインやポルトガルの奴隷商人達は、アフリカ人なら誰でも彼でも、捕獲して、奴隷にしたのでは有りません。奴隷商人達も、文明人、キリスト教徒、は奴隷にはしなかったのです。つまり、文字を使用している人、キリスト教徒は決して奴隷にはしなかったのです。文化、文明、を持っている人々は、人間として扱いました。逆に言えば文化、文明、を持たない人は、人間と見なさなかったのです。
その一番の証拠が文字、だったのです。文字を知らない奴は、人間ではないから、奴隷にしようと、殺そうと、犯そうと、罪では無い。誰も文句は言わないし、神もきっと許すはずだ。と考えたのでした。その結果新大陸、と西印度諸島の奴隷達は、文字を使用しない人達だけが集められました。
ヨーロッパの奴隷商人は、全員クリスチャンだったのです。
話がそれますが、キューバやドミニカ、ハイチ、といった西印度諸島は圧倒的に黒人が多いですが、彼等も先祖はアフリカがルーツの奴隷だったのです。コロンブスが西印度諸島を発見してからはスペインの植民地にされました。この西印度諸島と言う名も、コロンブスが、印度の西側だと勘違いして命名してしまったのです。
余談ですがアメリカ本土の現地人をインディアン(インド人)と呼ぶのもこの事がルーツになります。従って現地人は自分の事を決してインディアンとは言いません。あくまでもナバホであったりコマンチ、やアパッチ族、等々なのです。固有の言語も持っています。ナバホ語やコマンチ語です。
ですが文字は持っていません。だからヨーロッパ人達は好き勝手に、ネイティブの人達を迫害したのです。アメリカに行って先住民の人に(顔が違うので直ぐに解ります)インディアンと言えば大抵ぼこぼこにされます。気を付けましょう。
さて本題の西印度諸島(ドミニカ、ハイチ、キューバ,etc)ではスペイン資本により、鉱山開発と砂糖とラム酒の生産、そしてタバコの生産が大々的に始まりました。現地住民を安い賃金で酷使し、スペイン本国は大いなる利益をあげたのです。
しかしこの時点では彼等現地人は奴隷ではなく、あくまでも労働者でした。その道の学者によればその数およそ30万程だと言われています。
アクシデント”経営者のスペイン人の鼻風邪が、現地労働者に移ってしまいました。
歴史に残るスペイン風邪第一号、免疫のない現地人労働者達は、バタバタと倒れ、やがて死に絶えました。半年ほどで。
サトウキビ農園も、ラム酒工場も、鉱山もタバコ工場も閉鎖に追い込まれそうになりました。何しろ労働者が一人もいないのですから。
ポルトガルがささやきかけました。
”労働者を連れてくるから、一人10ペソ出せ””頼む連れてきてくれ””よしきた” アフリカ人奴隷でした。。。。
こうして奴隷取引が始まり、やがてアメリカ本土にまで波及しました。本土の合衆国では、大勢の白人の中へ黒人奴隷が混じったため、人種差別が大きな問題になりますが、カリブ諸国では人種差別は殆どありません。
元々白人はほんの僅かだし、現地人は既に死に絶えています。20世紀になってからの革命騒ぎで、その数少ない白人達も逃げ出してしまい、殆ど黒人だけしか居ませんから、人種差別などは有りません。
現地人を酷使し、おまけに風邪を移して、結果的に皆殺しにし、アフリカンを大勢奴隷にしてしまった、コロンブスの成果です。さぞや現地人に恨まれたことでしょうが、どっこい、しっかりかたきもとられているようです。
このコロンブス一行、現地人の嗜好品であるタバコを世界に広めることのなりましたが、一緒に怖い病気ももらったのです。。。。梅毒です。
潜伏期間が長く、長期に渡って悪化するため、始めは、気にもせず、途中から少し”おいた”が過ぎたかな、などとすましていますが、しだいに体中ぼこぼこになり、鼻がもげやがて脳に来ると言う怖い病気です。性病です。途中で治ると言うことは有りませんから、致死率100%と言うことになります。無論当時はまだ薬はありません。
ヨーロッパ中を蔓延し、やがて日本にも来ました。キリスト教や鉄砲、ワインと一緒に、無論タバコも。。。先生方の多くは、秀吉はこの病気で死んだと考えています。コロンブスから100年後には日本にまで蔓延していたのです。権力とお金を持ったスケベな男達の多くが梅毒にかかりました。
こうして世界中を狂気に陥れた梅毒は、生活習慣すら変えてしまいました。
ローマ帝国以来風呂好きだった、地中海諸国ヨーロッパ諸国では、公衆浴場が梅毒感染の温床にされてしまい、すがたを消しました。飛ばっ塵です。家庭で風呂に入れるような人はほんの一握りの特権階級、庶民達は風呂に入れなくなりました。入らなくなりました。
現在でも小さな湯船に体を沈め、上がるときには湯を捨ててしまいます。一回ずつお湯を変えるのです。全部梅毒のせいなのです。こうして怖い病気の蔓延が、生活を変えてしまったのです。別に風呂のせいでは無いのですが、、、。
全く同じ話が1980年代にも起きました。ただしこの時は梅毒ではありません。エイズです。白人社会に唯一残っていた公衆浴場。ローマ帝国以来2000年以上辛うじて生き延びていた伝統。サンフランシスコにありました。六軒ほど。
真ん中に温水大浴場が有り、その周囲を個室が取り囲んでいるのです。無論個室の方にも二人で入れるくらいの大きめのバスが付いています。施設その物は女性禁止、男性オンリーです。同性愛者の溜まり場になっていました。大浴場でナンパして、リザーブしてある個室でセックスを楽しんでしまうのです。エイズの第一号患者は此処の常連でした。10人目ぐらいまでは全部此処の常連でした。無論死亡者も。
始めのうちエイズはホモの病気だと言われたのはこの為です。
サンフランシスコ市衛生当局は、公衆浴場六軒の営業を禁止しました。たしか1983年の事でした。これも飛ばっ塵です。ローマ帝国以来2000年以上の伝統を誇る、白人社会の公衆浴場は無くなりましたが、エイズは無くなりません、増え続けています。
古くからある伝統的な事物が衰退したり、無くなったり、禁止されたりするのは、大抵新しい、それに変わる事物が出現するからなのです。
公衆浴場が禁止されたのは同性愛その物が、社会に認知され始め、もはや浴場と言う隠れ蓑を必要としなくなった為なのです。メッテルニッヒが貴族風刺オペラ(この時代は殆ど全てのオペラ)を取り締まれたのは、室内楽ダンスパーティが大流行していたからです。ジャズが大流行したのは、室内楽に参加できない庶民達の要求でした。
替わりの事物が無いのに禁止するとどうなるかは、アメリカの禁酒法、とヒットラーのジャズの禁止、が好事例になるでしょう。
禁酒法は大失敗、誰も酒をやめた人はいません。マフィアだけが闇酒を売って巨大化しました。ヒットラーの死んだ後、ジャズは見事に復活しました。