20世紀パクスアメリカーナ、
心のルーツ、
私は映画が大好きです。中でも西部劇 ウエスタン時代の映画は大好きです。ドンパチの場面が有ろうが無かろうが、あの埃臭い匂いが 良いのです。世紀末に近い現在の1999年に学生をしている人達から見れば、はるか大昔の事 と思えるでしょうが、実はそんなに古い話、時代では無いのです。 この時代の最後のころは、自動車も飛行機も電話も、既に在ったのです。信じられますか。では具体的にいつ頃の事かというと、1999の現在から見れば100-80年程昔の話、と言う事になるのです。 ですから現在80歳過ぎの高齢者達は、ウエスタン時代の生き証人とも言えるのです。アメリカ人ならば、、、、
今でも有名な映画、映画史に残る名画 ワイルドバンチ や、明日に向かって撃て はこの時代の実話 アメリカ人なら大抵知っている話 日本人にとっての新撰組や忠臣蔵のように 有名な話 実話なのです
西部開拓時代が終わったのはこの自動車や電話 自転車や飛行機 etcと言った便利な機械が発明 実用化されたためでした。土を相手にするウエスタンの仕事よりも、東部の工場で自動車作りのほうが、はるかにお金が稼げたのです。また国としてもその方が税収が増え、当時の世界共通思想である富国強兵には都合がよかったのです。富国強兵は日本だけの専売では無かったのです。西部フロンティアから人々は皆、東部の工場へ働きに行ってしまいました。 それだけではなく、それまでは西部フロンティアを目指して続々とやってきたヨーロッパからの移民達も、これ以降は東部、中部、の工場を目指す様になり、宗教的理由で、西部を目指すほんの一握りの人々を除いて、西部に移民する人はいなくなったのです。こうしてウエスタン時代は終わりを告げました。第一次大戦の終わり頃ですから、1917-8頃の事でした。
貧しき者の味方、石油と自動車、
南北戦争で名目上は奴隷ではなくなった黒人達も、南部の敗戦による主家の没落で、実際は、より一層悲惨な生活を強いられていたのです。 豊かな奴隷が、極貧市民になっただけの事でした。仕事も無いのに、”さあ、お前は自由だ、一人で生きて行け、”と言って放り出されてしまいました。
40-50年間もの長いこと、こんな状態が続いており、貧しい黒人達や、一旗揚げようとして西部へ来てはみたものの,夢やぶれて下積みに甘んじていた白人達が、時節到来とばかり一斉に、東部の工場へ行ったのです。カウボーイやガンマンに代表される白人達 コットンフィールドの大勢の黒人達が 一斉に東部の工場へ行ってしまったのです。もちろん相変わらず、ヨーロッパからの移民は、アメリカを目指して大勢やって来るのですが、これまでのように西部フロンティアを目指す者はいなくなり、東部の工場地帯で働くのが目的になりました。人口も増え、活気に溢れる東部の町々。人々は懐を$で膨らませ夜の巷へ、大挙して押し掛けたのでした。
このことが、20世紀の文化、映画、ミュージカル、ジャズ、庶民のレストラン、大衆のファッション、といった20世紀初頭から出現した偉大な文化のほとんど全てが、アメリカ東部ー中部を中心とした一帯から発信された理由の全てだったのです。 この頃になるとヨーロッパからの移民と言っても、宗教的理由による、僅かのアイルランド人を除けば、移民の大半は、経済的理由によるイタリア人でした。あれほど沢山いたドイツ人も、大戦で敵国になったため、暫くの間は一人も居ませんでした。浮き世の汚れに関わることなく静かな信仰的生活を望む人達は、まだまだ未開の天地である西部地区を目指し、お金を稼いで一旗揚げたい人達、数の上では殆ど全て、と言うことになりますが、この人達は東部の工場地域を目指したのです。そしてこの人達がほとんどイタリア人だったと言うことが、20世紀、世界に振りまかれた文化の全てに近い部分で、ある共通の香りを持つ最大の理由になっているのです。
ウエスタン時代から既に、大国、
明治維新で、ある意味では近代化を成し遂げ、すでに時代劇の時を終えた日本は、同じような国ロシアと1904-5年、日露戦争を戦いました。この時、休戦の仲裁をしたのがsルーズベルトのアメリカなのですが、他国 しかも世界最強の陸軍国と言われたロシアと、それまでは一応、ほぼ互角に戦っていた日本を、半ば強制的に休戦させたのです。まあ色々な理由が重なってそうなったのですが、、、、実はそのレフリーか又は後見人のような役目を引き受けた世界の大強国アメリカの姿や影、これは貴方が見たウエスタン映画の姿や影と同じ物なのです。ポーツマスでsルーズベルトが日露の調停をしている頃、西部ではガンマンが決闘をしていました。この数年前までアパッチのジェロニモがテキサスで暴れていました。ビリーザキッドもワイアットアープもほぼこの時代の人なのです。 フロンティアは東から消えていきました。代わりにジャズエイジの幕開けとなったのです。別の言い方をすると農業、畜産業の時代が終わり工業の時代になったのです。世界中どこの国でも、同じ道順をたどります。無論日本でも。
アメリカは人種のるつぼです。中西部や南部の農場には多くの黒人がいたのです。 彼らの父祖は、アフリカからさらわれてきて、売り飛ばされてしまった奴隷ですから、彼らの歌 ブルースはルーツがアフリカと言うことになります。工場勤めになった彼らは、既に奴隷ではなく、また極貧な市民でもありません。貧しいながらも働いた分だけは確実に、給料のもらえる、中産階級の仲間入りをしたのです。多数の黒人が急激に都会へ進出した事と、当時最新の音楽である、ジャズの発生は切っても切れない因果関係にあります。一口にジャズと言っても色々ありますが、特に現在のジャズの主流になっている、モダンジャズとは密接に係わりがあるのです。それは、、、
それまでのアメリカ大都市の音楽シーンの主流は、ヨーロッパの都会人達の音楽、現在では室内楽と呼ばれている音楽と、室内楽以前のクラシック音楽の、拮抗状態になっていたのです。
現在に置き換えれば、若者の支持を得た流行の先端を行くJポップスと、年輩の人が支持する懐かしの歌謡曲、ぐらいの関係と思えばよいのでしょう。当然、室内楽派が優勢になってはいましたが、ヨーロッパとは違い、社会風刺、体制批判のモーツアルトオペラ、等が取り締まられるようなことが無かったので、クラシック派も結構まだまだ盛んでした。ヨーロッパとの大きな違いはヴォーカルが、19世紀終盤には、殆ど英語になっていたのです。どちらにしてもヴォーカルは当然オーケストラ伴奏になるわけです。オーケストラ+ヴォーカルが当時の基本形なのでしょう。このスタイルが当時の標準系、まったく普通の音楽と言うことで、後にスタンダードと呼ばれることになります。 日本ではおおむね鹿鳴館の時代から大正初期の頃になります。 アメリカの時代、開幕
20世紀になって、映画が出現しますが、まだ無声、無音です。ラジオも出現しますが、性能が悪くて、音楽まではとても無理な状態です。レコードももう少し後で出現しますが似たり寄ったり、テレビはまだありません。こんな時代でした。
豪華客船はステータス
タイタニックの映画を見ますと、ヨーロッパからアメリカへ文化、特に音楽が伝わっていく様子が良く描かれていて、とても興味深いです。過去にこのタイタニック事件を扱った映画は、何本も作られましたが、いずれもこの部分の扱いは、この映画の主題、主張、の最重要場面になっています。無論氷山に衝突、沈没の場面を除いての話ですが、、、、、
大西洋を航海中のタイタニックの一等船客達は、豪華なディナー、勿論フランス料理ですが、と、船長主催による夜毎の絢爛なパーティを楽しんでいました。
ある日は船客の誰かの誕生パーティ、ある日は航海の無事を祈るパーティ、ある日は船客の誰かの結婚記念日パーティ、女王、国王、祭日、エトセトラ。パーティですからなにかしらの理由は付けるのですが、早い話が、航海中の21日間、船客を退屈させないのが目的でした。一等料金はそれだけのことをしても、充分採算が採れるほど高額だったのです。ちなみに一人分の一等料金は、500人近くの三等船客全員の料金の合計よりも遙かに高かったのです。
前置きが長くなりましたが、問題はこのパーティの内容なのです。男は略式でもタキシード、大抵はフロックコート、女性は未だカクテルドレスすら登場しません。全員イヴニングドレススタイルです。飲み物は勿論、上等なシャンパン、大量のキャビアが、やけに目に付きます。極めつけの音楽、ダンスの場面では、弦楽器中心の室内楽が演奏され、見るも華やかなカップルと、そうでもないカップルがワルツに興じています。
映画によっては、7-80歳代の老貴婦人をダンスに誘う場面が有ります。するとその老婦人は、ワルツなどという柄の悪いダンスはいやだ、と言って断るシーンもあります。タイタニックの事件は1912年ですから、この老婦人は、1820年代後半から1840年代前半までの間に生まれた人、と言うことになるのでしょう。もう少し年上ならばメッテルニッヒやナポレオンの記憶も持っている世代、ということですし、一歩下がってもナポレオン3世は、兄か父親の世代と言う人々なのです。
ヨハンシュトラウスも売り出した頃は、不良のための得体の知れない柄の悪い音楽とダンスを提供したと言えるのです。日本で言えば幕末の、新撰組が暴れていた頃の話です。
タイタニックの時代には中流以上の人々の、普通の音楽になった、室内楽ですが、老人達の若い頃には、柄の悪い一部の若者、不良達の愛好する特殊な音楽だったと言うことがこの年寄り達の態度で理解できるでしょう、、、夜な夜なパーティ三昧の貴族やお金持ち達も、そろそろ同じ顔ぶれに飽きてきた頃、船は目的地のニューヨークに付くのです。
フランス料理は貴人のオブジェ
タイタニックはニューヨークを見ることは有りませんでしたが、他の船でも内容は同じ事でした。違いは2日ほど余計に時間がかかること、船が少し古くて小さい事、位のものです。どの船であろうと一等船客の絢爛ハウスムジークパーティと、豪華フレンチディナーはセットで供されていたのです。もっとも一等船客達はそれらのことを、豪華などとは少しも感じてはいなかったのです。彼等にはそれは普通の事なのです。あくまでも我々から見て、ということなのです。。。。。 また文化と言う面から見れば音楽と双璧をなす、晩餐料理、ディナー、がこの時代には既に現在と同じように、順番にコースで供されるようになりました。
産業革命までは、パーティディナーはテーブルの上に、まるで建築物のように、またはオブジェのように、概ね、一度に積み上げて、提供されたのです。そして、料理人達は味よりも、オブジェ、クラフト、としての豪華さ、美しさを競いました。全ての料理を一度に飾ってしまうわけですから、熱い物などは、ありません。また乾いてしまったり、流れてしまったり、ろくな状態ではなかったでしょう。
こういったオブジェ的パーティ料理を、現在のようなコース料理に変えたのは、大型客船の登場でした。それまでは簡単な食事しか提供できなかった、船内料理も客船が大型になるにつれ、会場もゆったりと取れ、設備も整い、材料も豊富に積めるようになり、可能になったのです。当然料理人も一流の者が多勢乗り込めます。ですがテーブルの上、にオブジェを作るのはさすがにためらわれたのです。いくら大きく、豪華になっても、やはり荒天時は揺れるのです。そのため、僻地に駐屯する軍隊や、貧しい北国の諸侯達が行っていた方式、一皿ずつ順番に供する方式に落ち着いたのです。フランス革命以後、いくらか遠慮がちにはなりましたが、それでも大型客船が登場する以前(1880位まで)は、パリやロンドン、ウイーンと言った都会では、全てのパーティで、料理のオブジェを飾っていたのです。
通常は陸上の習慣が、船上にも持ち込まれますが、この場合は船上の都合が、陸上の習慣を変えてしまったのです。それだけ大型客船は、当時最高のステータスシンボルだったと言えるでしょう。
目的は醜くとも、手段は美しく、
パーティに集う参会者達も、美しく豪華に飾り立てられた料理のオブジェを、絵画でも観賞するように、大げさに褒め称えたり、または、そっとけなしたり、はするのですが、殆ど食べようとはしないのです。結局パーティが終わると共に、下げ渡したり、ときには捨ててしまったり、と言うことになります。コースで料理が出るようになってからは、自分の皿の上の物は大体食べるようになりました。しかしギャルソンの取り分ける料理は、美しく盛りつけられますが、大きく豪華な皿に比べて、何と少ないことか。
この時代、キッチンで個々の皿に盛りつけることはしません。銀の大皿等に豪華に飾り付けて、それをまず客に観賞して貰い、その後にギャルソンが個人個人に取り分けるのです。ですからお客の前には、空の皿が置いてあることになるのです。現在でも、結婚披露宴等で時々こういう場合が有ります。当然お金がかかることでしょう。オブジェを飾っていた時代の名残なのです。全ては見た目が美しく、文化的、になるためでした。
我々日本人が、西洋人のパーティシーンをうっとりと眺めるのは、この事が理由でしょう。美しく着飾った男女が、豪華な料理をしり目に、会話に、ダンスに興ずる。楽しく、魅惑的な時間を過ごしているように見えながら、その実、政治や軍事、の情報を得たり、敵だったはずの人を味方にしてしまったり。まあ映画だとこんなシーンなのでしょう。要するに食べ物は手段であって、目的はあくまで社交なのです。どうせ食べないのだから、料理などいらないではないか、と思う人もいるでしょう。特に昨今の日本人には多いと思います、ですが目的である社交のためには、手段である料理や音楽、シャンデリアや花と言った装飾、特に着飾ったご婦人方は絶対に必要なのです。 文
化は手段
社交の目的である、戦争や商売は文化ではないのです。これは確実なのです。しかし、手段である料理、音楽、装飾、それに着飾った令嬢、令夫人、これらは確実に文化なのです。 百歩譲って、男のタキシード、やフロックコート、も文化だとしましょう。それにしてもその気取った衣装の中身は、只ひたすら、目的の事だけを考えている、およそ文化とは縁の無い、何とも醜い生き物なのです。それに比べれば女の人のドレスは、紛れもない美しい文化ですし、またそんなことは滅多に無いとしても、ドレスを、私のために取り去ってくれたとすれば、その中身こそ正真正銘の文化なのです。 目的は文化では無いのです。文化とは目的を快適に、そしてスムースに実行する手段の事なのです。
楽しくて怖い事、それは社交、
このように20日以上ものパーティ騒ぎは繰り広げられるのですが、目的はあくまで、アメリカへ行くこと、大抵はビジネス絡みで東海岸、ニューヨークやボストン、せいぜいデトロイト、シカゴ、まで。希に南部のアトランタ、ニューオリンズまで。東部中部の工業地域、または南部のコットンフィールドへ向かうのです。大抵現地に家は有りますが、移民したわけでは無いので、現地事務所兼住まい、と言うことになります。これが又、大変な御屋敷と言うことになるのです。彼等はこの現地事務所兼お屋敷で、支配人や使用人や、、、、、に囲まれて過ごします。実際の仕事は殆ど彼等がやってくれるので、する事と言えばもっぱら社交、例のハウスムジークパーティを夜毎繰り返すのが常でした。
何のことはない、ヨーロッパに居るときも、旅行中の船の中も、そして現地へ着いても彼等お金持ち達は、社交という名のパーティをしているだけの、人達だったのです。
もっとも仕事が増え、複雑になればなるほど、この社交が重要な仕事になってくるのは、この私も年と共に痛感されるのですが。。。。。ちなみに、やれ経済大国だ、先進国だ、それ文化国家だ平和国家だ、などと言われながら、使ったお金の割には、世界的に評価が低いのは、この社交下手、パーティ下手のせいではないかと思います。。。。なぜかと言われても、答えは私の職業はレストラン経営である、とだけ言っておきましょう。
まあこんな訳でアメリカの東海岸からシカゴ、ニューオリンズ辺りまでがハウスムジーク流行地帯になるわけです。そしてこの室内楽が、南部に居た黒人達が、自動車工場で働くため、大量に東部や中西部に、また西部地区の貧しい白人カウボーイ達も、黒人程多くはないのですが、それでもかなりの数が、やはり自動車工場に職を求めて、移住して来る事により変化して来ます。黒人達はブルースを、カウボーイ達はカントリーウエスタンを持ってきたのです。そして又、同じ白人でも、タイタニックの船倉にいた、貧しい三等船客たちは故郷を捨て、アメリカの新天地で一旗揚げようと、これも又フォードやクライスラー自動車工場めがけて、やってきたのです。彼等はカンツォーネやイギリスやアイルランドやロシアの民謡を携えてきたのです。紆余曲折はありますが、室内楽にこれら庶民の音楽がブレンドされ、次第にジャズに変化して来ることになります。